不完全情報下の決断
現代社会は「情報化社会」と呼ばれている。
インターネット、SNS、AI、ビッグデータ――。我々は歴史上かつてない量の情報に囲まれている。しかし、その一方で、多くの組織は以前よりも「決められなく」なっている。情報量が増えすぎた結果、「完全な情報が存在する」という幻想が生まれたからである。
しかし、『作戦要務令』(※)は、その幻想を明確に否定している。
(※)旧日本陸軍の『作戦要務令』。元陸軍参謀の実業家・大橋武夫は「現代企業のための優秀な経営書」と評価
「敵情特に其の企図は多くの場合不明なるべし」
ここで重要なのは、「敵情は不明である」という点を前提条件としていることだ。つまり、『作戦要務令』は、「完全情報など存在しない」という認識から出発しているのである。
これは極めて重要な思想である。現代の多くの組織は、「情報不足」を理由に意思決定を先送りする。追加調査を行う。市場分析を続ける。専門家会議を開く。コンサルタントを入れる。リスク検証を繰り返す。しかし、その間にも状況は変化し続ける。つまり、情報を集めている間に、「戦場そのもの」が変わってしまうのである。
『作戦要務令』は、この問題を非常に深く理解していた。戦場では、敵の正確な兵力も、本当の意図も、次の行動も、完全にはわからない。むしろ、わからない状態のほうが普通である。だからこそ、重要なのは「完璧な分析」ではない。不完全な情報の中でも決断できるかどうかなのである。
ここで『作戦要務令』が特に警戒しているのが、「受動」の状態だ。
「一度受動の地位に陥らんか、彼の意志に支配せられ、終に敗北失敗に終る」
つまり、一度主導権を失えば、組織は相手のペースで動かされるようになる。
「正解」を待たずに生き残ったNetflix
この問題を象徴しているのが、Netflixである。
(※)世界190カ国以上で展開する世界最大手の有料会員制動画配信企業で、売上高は約6兆円規模(2026年1月時点)に達する。
もともとNetflixはDVDレンタル配送企業だった。しかし2000年代後半、動画配信技術と通信環境の進化によって、映像産業の構造が大きく変わり始めた。当時、動画配信市場はまだ不透明だった。通信速度の問題もあった。著作権処理も複雑だった。ユーザーが本当に「配信」を主流として受け入れるかもわからなかった。
つまり、完全な情報は存在していなかったのである。しかし、Netflixは、「不確実だから待つ」という選択を取らなかった。むしろ、自社の主力事業だったDVDレンタルモデルを、自ら破壊する方向へ舵を切った。
これは極めて危険な決断だった。もし動画配信市場が成長しなければ、既存事業まで失う可能性があったからである。実際、当時は株価暴落や利用者離れも起きている。
しかし、Netflixは「環境変化の速度」を重視した。つまり、「正解を待つこと」の危険性を理解していたのである。結果として、Netflixは映像配信企業へ転換し、生き残った。
ここに、『作戦要務令』と現代経営の共通点がある。情報とは、「完全になってから使うもの」ではない。不完全なまま使うものなのである。
だからこそ、『作戦要務令』は、情報収集よりも「状況判断」を重視する。重要なのは、情報量ではない。限られた情報の中で、どれだけ早く本質をつかみ、方向性を決められるかなのである。
現在、日本社会では、「失敗しないこと」が過剰に重視されている。その結果、多くの組織が「決められない組織」になっている。しかし、危険なのは「間違った決断」だけではない。決断しないことで主導権を失うことなのである。
『作戦要務令』が教えているのは、この極めて単純な事実だ。完全情報は存在しない。だからこそ、組織は不完全な情報の中で決断しなければならない。
戦略とは「正解を知ること」ではない。不確実な世界の中で、主導権を失わずに動き続けることなのである。


