最終的に決めるのは「データ」ではなく「人間」
現代社会では、「データに基づく意思決定」が絶対的な正しさであるかのように語られることが多い。
AI、ビッグデータ、アルゴリズム、統計分析――。企業経営でも政治でも、「科学的判断」が重視されるようになった。もちろん、データ分析そのものは重要である。しかし、その一方で、現代組織はある根本的問題を抱え始めている。
それは、「誰が最終的に決めるのか」が曖昧になりつつあることだ。
ここで極めて重要になるのが、『作戦要務令』における「決心」の概念である。『作戦要務令』は、「決心」について非常に明快に定義している。
「決心とは、『私はこうする』と意思を決定することである」
この文章は、一見すると単純に見える。しかし、そこには極めて重要な思想が含まれている。ここでいう「決心」とは、単なる分析結果ではない。「私はこうする」という意志表明なのである。
つまり、『作戦要務令』は、「最終的に決めるのは人間である」という点を極めて重視している。
「自分で決める責任」から逃れたい組織
これは現代社会において、むしろ忘れられつつある感覚だ。
現在、多くの組織では、「データがそう示しているから」という言葉が免罪符のように使われる。市場調査の結果、AI予測、コンサルタント分析、統計モデル、需要予測……。
もちろん、それらは意思決定の重要材料になる。しかし、それらはあくまで「補助」に過ぎない。なぜなら、未来は本質的に不確実だからである。どれだけ高度な分析を行っても、未来を完全に予測することはできない。
特に新・帝国主義の時代では、その傾向がさらに強まっている。アメリカの政権交代一つでエネルギー政策が変わる。中国経済の減速で市場構造が変わる。AI革命で産業そのものが再編される。戦争や制裁によってサプライチェーンが寸断される。
つまり、現代世界は「前提条件そのもの」が高速で変化している。
そのため、どれほど高度なデータ分析を行っても、「絶対的正解」は存在しない。にもかかわらず、多くの組織は、「分析の正しさ」に依存しようとする。「自分で決める責任」から逃れたいからである。
実際、データ分析に従った結果失敗した場合、「分析結果が間違っていた」という説明が可能になる。しかし、自らの意志で決断して失敗した場合、責任は直接その人物へ帰属する。だからこそ、現代組織では「誰も決めたがらない」という現象が起きる。

