覚悟か、あきらめか、安堵か
もっとも戦国時代の女性の胸の内を、文献史料をもとに正確に解明するのは困難だ。「御くやしく候」も城を出されたのが悔しいというより、もっと単純に、浅井が「戦いに負けた」ことが悔しい、そう読むこともできるだろう。
お市の考え方については研究者たちがそれぞれの見解を示しているので、筆者の知る限りあげておきたい。
北川央氏(織豊期政治史)
織田信長が荒木村重の妻子、家臣たちの妻子、女房たち数百人を惨殺して以降、縁坐が拡大する傾向にあったため、秀吉に投降せず勝家と共に死ぬ決断をした(縁坐:罪を犯した本人のみならず家族・親族まで処罰されること)。
田端泰子氏(日本中世史・女性史)
北ノ庄城落城の時点で三法師や織田信雄(信長二男)は健在だったが、すでに三男信孝は秀吉に降り、また信雄と秀吉の関係も予測不能ゆえ、お市が帰るべき織田家はもはや存在しなかったため、死を選んだ。
もうひとつ、やや古い参考図書だが桑田忠親氏(日本中世史/故人)の意見もあげておきたい。
・お市は自分の運命に忍従(嫌な指示でも言いなりに従う)する女性だったが、北ノ庄ではついに生き抜くことの悲しみに堪えかねた。
4人の研究者の意見から筆者が思うのは、お市には「もう、どうしようもない」というあきらめと、「(北ノ庄で)やっと楽になれる」という達観した感情が、複雑に混じり合っていたのではないか、ということだ。
織田家はお市をとことん利用しようとした
筆者がもうひとつ注目したいのは、小谷落城(1573)から北ノ庄への輿入れ(勝家との再婚/1582)までの9年間、お市がどこで、どう過ごしていたか――である。
この“空白の9年”、お市はまず叔父にあたる織田信次の庇護の下、尾張・守山城(愛知県名古屋市)にいた。信次は織田一門の長老だ。
1年後に信次が戦死すると、天正2(1574)年以降は岐阜城に引き取られた。当時は信長自身が治めていたが、同3(1575)年に嫡男・信忠に家督を譲り、岐阜城も信忠のものとなった。
重要なのは、お市は最初こそ一門の長老の下にいたものの、以降は信長→信忠と、一貫して織田家当主の下に置かれていたことである。すなわちこれは、いざとなればまた政治の道具として、お市を利用する目論見があったと見て良い。
何しろ美人と評判だった女性だ。『渓心院文』は、
「ことの外御うつくしく御とし頃より若かに御廿二、三にみえさせられ候」
と、記している。お市が30歳を過ぎた頃の記述と想定されるが、「美しく、若々しく22〜23歳に見えた」とある。
実の容姿は想像する他ないが、少なくとも美女の誉高かったのは確かなようで、言葉は適正ではないが婚儀の際の「餌」としての利用価値は、まだまだ高かっただろう。
その一方、このことがお市の心理にどう影響したかを考えると、複雑な思いを抱く。お市はその生涯を通じ兄(信長)をはじめととした男たちの言いなりで、生きている限り、その境遇は変わらなかった。
北ノ庄城で、ようやくその宿命が終わる――もはやお市には、生への執着などなかったと思える。

