人間の欲の象徴として栄えた「闇市」
当時の日本人は、誰もが焼夷弾や爆弾に恐れおののく日々から解放された安堵を感じていたが、人間というものは、生きているだけで腹が減る。敗戦の焼け野原のなかでも物欲や性欲がなくなるわけではない。軍国主義の秩序が消えたあとに剝き出しになるのは、人間のどす黒い欲そのものだ。三ノ宮駅から神戸駅方向の国鉄の高架下を占拠した闇市は、その象徴だった。
初めて闇市に行ったとき、よくも悪くも、純粋培養されて生きてきた喜八郎は驚愕した。
三ノ宮駅から元町駅にかけて続いた闇市は当時、「三宮自由市場」と称され、日本国内屈指の規模を誇った。もっとも栄えた時期には1500軒もの屋台が連なったが、当然ながら、それは国民生活を陰で支える必要悪であったと同時に、殺人や盗難など、多くの犯罪の温床ともなった。
混迷極まる社会情勢のなか、職探しはひと筋縄ではいかなかった。
独力で仕事を見つけることの難しさを痛感した喜八郎は、神戸国防婦人会会長であった福弥の伝手をたどり、西井商事という会社を紹介してもらうことになる。
「これからは平等な世の中になったんだ」
まずは面接だ。指定された場所に行ってみたが、会社らしき建物が見当たらない。瓦礫のなかにポツンと張ってあったテントらしき囲いの前に腰掛けていた男に、喜八郎は声をかけた。
「この近所に西井商事という会社があるはずなのですが、ご存じありませんか」
「おお、知っているよ」
「それは助かった。どのあたりですか」
「ここだよ。ここが西井商事だ」
「ええっ」
素っ頓狂な声が出た。
「君が坂口君か」
「はい」
「おれが西井だ。人手が足りなくて困っている。君は陸軍の将校だったそうじゃないか」
「姫路師団の少尉でした」
西井は揶揄するようにニヤリとして語った。
「戦争に負けちまったら、大将も軍曹もありゃあしない。威張り腐っていた憲兵もいつの間にか消えちまって、これからは平等な世の中になったんだ」
不敵な臭いがプンプンする怪しい男だったが、語った言葉に偽りはなかった。戦前に存在したヒエラルキーは、神戸の街が瓦礫に化すと同時に粉砕された。とはいえ、人間が集まれば必ず序列が生まれ、新たなヒエラルキーが誕生する。
帝国陸軍という鉄壁の官僚組織が消えたあと、「権力の空白」を埋めるべく、あらゆる勢力が策動していた。
