居場所を失った敗戦後の軍人の戸惑い

鬼塚夫妻の住まいは、神戸市の生田いくた区(現・中央区)山本通やまもとどおり四丁目にあった。造船所や製鉄所が集中していた神戸の海側は空爆で全滅したが、福弥の住んでいたあたりは焼失をまぬかれた。神戸のおよそ六割が焼け落ちたことを考えれば、借家とはいえ、住む家が残ったことは、このうえない幸運だった。

こうして、喜八郎と赤の他人の老夫婦との奇妙な生活が始まった。まずはともあれ、この廃墟と化した神戸で食い扶持ぶちを探さねばならない。

だが、鳥取一中を卒業してから28歳になるまで、喜八郎は軍隊という特殊な世界しか知らなかった。軍隊は規律と秩序が支配する究極の縦社会である。命令には絶対服従だが、裏を返せば命令に従ってさえいればよい。

個人の創意工夫が発揮される余地の少ない軍隊経験しかなかった敗戦後の軍人は、明治維新の武士さながら、いきなり居場所を奪われ、多くの人間が新しい社会に適応できなかった。

陸軍に入隊後、騎乗する戦時中の喜八郎
陸軍に入隊後、騎乗する戦時中の喜八郎[写真提供=ASICS]

もちろん喜八郎も、その例外ではなかった。

とにもかくにもカネを稼ぐしかない

どこで何をしたらよいのか。いや、そもそも、自分は何ができるのか。

鬼塚夫妻の面倒をみるとはすなわち、カネを稼いで夫妻を養っていくことだったが、喜八郎は民間で働いたことなどなかったし、一面焼け野原の神戸において、そう簡単に勤め口が見つかるはずもなかった。

二階の一部屋をあてがわれた喜八郎は、とにもかくにも、と翌日から街に出た。そこでは、家を失った人たちが、焼け跡に散乱した廃材を使って雨露をしのぐ掘っ立て小屋をつくり、食料も手に入らぬ窮乏生活を送っていた。

一方で、旧外国人居留地の神港しんこうビルを訪れると、その前には軍用車両のジープがところ狭しと駐車し、米兵が隊列を組んで歩いていた。彼らの顔は生気に溢れていた。

神戸随一の繁華街であった新開地も焼け野原だったが、無傷で残った聚楽館しゅうらくかんは占領軍に接収されていた。聚楽館は大正時代に神戸の財界人たちがつくった劇場で、「西の帝国劇場」とも称されたが、1927(昭和2)年に映画館へと衣替えし、2年後には松竹に売却された。

神戸の廃墟を我が物顔で支配する占領軍の様子を見ながら、戦争に負けるとはどういうことか、少しずつ喜八郎は理解しはじめた。敗者は勝者に従うしかないのだ。