米軍に敗れる前に、「組織の内側」国内で負けていた
陸海軍の分立は、戦場でも最後まで解消されなかった。その象徴がレイテ戦域にあった。
厚生省援護局復員課が戦後に作成した「4 潜航輸送部隊の作戦」によると、1944年11月、まるゆ3隻がフィリピンのレイテ島への輸送に向かい、1隻を失ったが、2隻は到着して精米などを陸揚げした。
米国の国立第二次世界大戦博物館が公開する米陸軍通信隊の写真「1945年1月6日、フィリピン・オルモック近郊の日本軍特二式内火艇」には、同じレイテ戦域にあったカミ1両が写っている。この写真から確認できるのは1両の所在にとどまり、部隊規模や戦果ではない。
レイテ戦域には、陸軍の潜水艇と海軍の戦車が別々にたどり着いていた。この事実は、この戦争の縮図である。
振り返れば、陸軍と海軍の軋轢は、戦況の節目ごとに日本自身の足を引っ張っていた。ミッドウェーでは、主力空母4隻の喪失という戦況の根幹にかかわる情報さえ、味方の陸軍への共有が制限された。ガダルカナルでは、海上輸送の行き詰まりに対して両軍は解決策を一本化できず、陸軍は自前の潜水艦の建造に乗り出した。
船舶は陸軍、海軍、民需の3系統に分かれ、前線への補給と国内の生産をともに細らせた。燃料は、内地へ運ぶこと自体が作戦になるほど輸送が逼迫した。そして、乏しい資材と工業力は二重の開発・運用体系に分散した。
つまり、陸軍と海軍の縦割りは、補給を細らせ、戦況の認識を歪め、戦力の集中を妨げるという形で、日本の戦力を内側から損ない続けたのである。旧日本軍は、米軍に敗れる前に、「2つの軍隊」という内なる敵に足をすくわれていたのだ。

