出発点から異なった陸海軍の軍備構想
陸軍と海軍は、軍備構想でも異なる方向を向いていた。1907年4月に初めて定められた「日本帝国ノ国防方針」は、ロシアを第一の想定敵国とし、米国、ドイツ、フランスがこれに続いた。一方、軍備の標準は、陸軍が大陸での対ロシア戦を、海軍が太平洋での対米戦を念頭に置いた。
もっとも、当初の年度作戦計画では陸海軍とも対ロシア戦を最重視し、1923年の第2次改定では米国が両軍共通の第一の想定敵国になるなど、優先順位は変化した。それでも、異なる軍備構想を出発点として、兵力・教育・訓練を別々に整える構造は残った。これも統一的な戦争準備を難しくした要因だった(https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/C14061024500、防衛研究所「開戦期の戦争指導」、https://www.nids.mod.go.jp/publication/militaryhistory_research/mh_tokushu/eastasia_military_history/pdf/emh01_10.pdf)。
こうした陸海軍の縦割りは、補給、装備、情報、船舶、燃料の各局面で、日本の戦力を内側から損なっていくことになる。
ガダルカナルの補給難が陸軍潜水艦を生んだ
冒頭の信号のやり取りは、関係者の証言をもとに土井が記した戦後の逸話であり、同時代の信号電文そのものではない。ただし、陸軍が独自の潜航輸送艇を建造した事実は公文書で確認できる。
陸軍が自前の潜航輸送艇を造った直接のきっかけは、ガダルカナル島への補給難だった。
厚生省援護局復員課が戦後に作成した「1 潜航輸送実施の準備」によると、ガダルカナル島への補給が難しくなったことを受けて、海軍は陸軍にひとつの案を示した。
艇を操る要員は陸軍が出し、潜水艦そのものの管理は海軍が持つ、という内容である。参謀本部はこの案を採らず、1943年4月17日、東條英機陸相が陸軍独自の建造を決裁した。陸軍は、海軍に運用の権限を委ねない道を選んだのである。
1943年11月29日付の陸軍省「経監電第21号 野戦部隊用諸規定送付方の件」は、潜航輸送艇を敵の制空下で人員と貨物を運ぶ「決戦海運資材」と規定した。この潜航輸送艇は、陸軍自身の命令系統と運用体系に属する装備だった。
前線の補給難という戦況に対して、両軍は解決策を一本化できず、「もう一つの輸送体系」を積み増すかたちで応じた。戦況の悪化が縦割りを深め、縦割りが戦力の分散を招いたのである。
