「一体化」の実態は東條と嶋田の兼任

陸海軍の分立は、航空資材の配分にも表れた。中山定義は自著『一海軍士官の回想――開戦前夜から終戦まで』(毎日新聞社、1981年、p.183)で、1944年2月10日の陸海軍間の航空資材配分をめぐり、嶋田繁太郎海相が軍令部や航空本部の求めた水準の海軍航空強化を実現できなかったと回想している。資材配分をめぐる海軍内部の不満が表面化したことがうかがえる。

その11日後の2月21日、こうした陸海軍の分立が続くなか、東條と嶋田に権限を集中させる人事が行われた。東條は首相兼陸相のまま参謀総長を、嶋田は海相のまま軍令部総長を兼ねた。

日本映画社『日本ニュース第195号』(1944年2月、昭和館デジタルアーカイブ)は、この人事を「陸海軍の国務・統帥を一体化」するものだと宣伝した。だが、東條は陸軍の、嶋田は海軍の軍政と作戦指揮の職をそれぞれ兼ねたにすぎない。両軍を横断する常設の統合幕僚機構が、新しく設けられたわけではなかった。

1940年代に撮影されたとされる東條英機の写真
1940年代に撮影されたとされる東條英機の写真(写真=Alchetron/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

「東條、嶋田のコンビでは我慢できぬ」

表向きは「一体化」でも、軍内部の受け止めは冷ややかだった。

海軍軍人だった大石保は「大石保日記 昭和18~19年」の1944年2月21日条(防衛研究所戦史研究センター史料室、登録番号①中央-日誌回想-1035、史料目録)で、統合に「理論的には賛成」としながら、「問題は人に在り」と記した。

高木惣吉『高木惣吉日記』(毎日新聞社、1985年、p.201~203)には、同年4月21日、海軍の神重徳が海軍省の課長会議の空気を「東條、嶋田のコンビでは我慢できぬ」と報告した記録がある。人事による権限集中は、陸海軍を横断する制度的統合の代わりにはならなかった。

米軍の反攻が本格化するなか、軍の中枢は統合できず、内側の不和を抱えたまま悪化する戦況に向き合っていた。