陸軍は海へ、海軍は陸へ進んだ

陸軍による独自建造は、試作だけでは終わらなかった。

国本康文『陸軍潜航輸送艇隊出撃す!』(国本康文、1998年)第6部の艇別行動記録を筆者が集計すると、完成が確認できる艇は38隻となる。これは公文書に一括総数として記された数字ではなく、艇別記録から得た集計値である。

陸軍省「昭和20年度第1次整備計画(海運器材)」にある潜航輸送艇1型70隻、2型10隻、計80隻という数字は、昭和20(1945)年度の計画値であって、実際に完成した数ではない。また、陸軍省「3式潜航輸送艇設計図」と、第十陸軍技術研究所「改装3式潜航輸送艇積載要領書」には、積み込む兵器や弾薬の梱包の寸法を定めた表まで収められている。陸軍が独自の運用体系を細部まで整えていたことがうかがえる。

陸軍が海上輸送用の潜航艇を造る一方、海軍は陸上を走る装備を持った。館山海軍砲術学校研究部「陸戦兵器要目表」は、水陸両用戦車「特二式内火艇」の名称と性能を掲げている。海軍自身が、これを陸戦兵器の一つとして整理していたことがわかる。

米陸軍省が1944年10月1日に刊行した戦時教範『日本軍ハンドブック』(Handbook on Japanese Military Forces)p.250~251、図250は、「新型水陸両用戦車」として、取り外しのできる前後の浮舟、2基のプロペラ、37ミリ砲を備えた車両を図示している。

教範に日本側の型式名はないが、その形態と構造から「カミ」とみられる。用途は違っても、陸軍は海へ、海軍は陸へと進み、設計から調達、運用までを自前で抱えた。

ただでさえ乏しい資材と工業力が、両軍の別々の体系に分散していたのである。

主力空母4隻を失っても、陸軍には「作戦延期」

陸海軍が分けていたのは、装備だけではない。ミッドウェー海戦では、主力空母4隻を失った事実についても、情報の共有範囲が厳しく制限された。

1942年6月4日朝のミッドウェー海戦中の日本軍による空襲後、燃え盛る石油タンク
1942年6月4日朝のミッドウェー海戦中の日本軍による空襲後、燃え盛る石油タンク(写真=US Navy/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

佐世保鎮守府の1942年6月戦時日誌に収録された海軍の通達は、ミッドウェー海戦のあと、「損傷艦名ハ一切公表セズ」「海軍部内一般及在外武官ニ対シテハ公表以外一切発表セズ」とした。海軍の部内にも駐在武官にも、公表した内容以外は伝えない、という意味である。

さらに陸軍の部内一般に対しては、「MI作戦ハ海上作戦ノ関係上之ヲ延期セリ」、つまりミッドウェー作戦は海上作戦の都合で延期した、と説明するよう指示した。

一方、第一航空艦隊戦闘詳報「ミッドウェー作戦(1)」(「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」)は、空母の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の喪失を記録している。史料から確定できるのは、陸軍の部内一般へ「延期」と説明する方針が示されたところまでである。それでも、主力空母4隻喪失という情報の共有範囲が、同じ国家の軍事組織内で制限された事実は重い。

正確な戦況を知らされない側は、不正確な前提に基づき、以後の作戦判断を誤りかねない。情報の縦割りは、それ自体が戦力の損失だった。