船舶の統括責任者はいなかった

船舶の運用は、陸海軍と民需の3系統に分かれていた。しかも、分け合う船腹そのものが不足していた。

1942年3月7日の大本営政府連絡会議決定「船腹ノ現状並ニ之ノ増強対策」は、1941年12月時点で日本が持っていた100トン以上の汽船の船腹量を649万総トンと記録している。

このうち油槽船タンカー、官庁用船、徴用船、修理中の船、失われた船などを除くと、重要物資の輸送に使えたのは174万総トンだった。全船腹に対する比率は26.8%である。1942年1~3月の重要物資の輸送量は月平均216万トンで、前年1941年の第1・第2四半期の月平均500万トンの43.2%にとどまった。いずれも、この連絡会議決定が定めた区分と数値による。

米国戦略爆撃調査団(USSBS)が1945年10月18日に行った大井篤海軍大佐の尋問記録「日本の海上護衛と船舶損失」(Nav第11号、米海軍歴史遺産司令部)によると、大井は、船舶全体を統括する単独の責任者はいなかったと証言している。

海軍、陸軍、運輸や通信を担う官庁がそれぞれに責任を負い、1943年11月に軍需省が設置されたあとは同省も強い発言権を持った。出航命令は、陸軍船では各地の陸軍司令部が、海軍所管船では海軍運輸本部または連合艦隊が出したという。

船腹の不足に加え、責任主体と命令系統も分かれていた。限られた船を取り合う体制は、前線への補給と国内の生産をともに細らせていった。

燃料を運ぶこと自体が「作戦」になった

石油の輸送にも、両軍間の調整が必要だった。1942年10月6日の陸海軍中央協定「昭和17年度下期南方石油取得に関する件」は、昭和17年度下期の「内地石油輸送量」の目標を122万キロリットルと定め、さらに増やすよう努めるとした。

これは油田の生産量や軍種別配分ではなく、日本本土への輸送目標である。1945年1月20日の「燃料並重要物資緊急還送作戦実施ニ関スル陸海軍中央協定要旨」は、燃料と重要物資を日本本土へ急いで運び戻すこと、すなわち緊急還送そのものを作戦の目的に掲げた。

開戦から3年あまりで、燃料を使って作戦を行うのではなく、燃料を運ぶこと自体が作戦になるところまで戦況は悪化していたのである。

日本海軍の測量艦「筑紫」。撮影=1941年12月
日本海軍の測量艦「筑紫」。撮影=1941年12月(写真=『写真日本の軍艦 第13巻』p58/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons