「協同」を命じても指揮系統は別々
本稿が示す答えはこうだ。陸海軍に協同を命じておきながら、両軍の作戦を一元的に立案・指揮する常設の統合幕僚機構を、最後まで置かなかった。調整の仕組みがなかったわけではない。大本営政府連絡会議や陸海軍中央協定はあった。だがそれは会議と協定に頼る仕組みで、陸軍と海軍の命令系統そのものは別々だった。
原因は制度の設計にある。1937年11月の「戦時大本営令(案)」と、1941年7月20日の「大本営陸海軍部及政府ノ申合細綱」の2つを読み合わせると、両軍に協同を求めながら、実際に作戦を動かす組織は「大本営陸軍部」と「大本営海軍部」に分かれたままだったことがわかる。
一元化を阻んだ陸海軍の「対等」
では、なぜ旧日本軍は、作戦指揮を一元化できなかったのか。壁になったのは、戦前日本の統治機構と、陸海軍の対等な関係だった。
大日本帝国憲法第11条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と定めていた。軍隊を動かす権限は天皇にあった。ただし、「軍の作戦には内閣も口を出せない」とまで憲法に明記されたわけではない。憲法制定前からの慣行や1907年の軍令制度などを通じ、軍の中枢が首相や大臣を介さず、天皇へ直接報告し、指示を仰ぐ仕組みが定着していった(国立国会図書館「憲法条文・重要文書」、同「文民統制の論点」)。
1937年当時、作戦指揮の中枢にいたのは、陸軍の参謀総長と海軍の軍令部総長だった。2人はともに天皇の直属で、互いに上下関係はない。その上に立って両軍を統合する「統合幕僚長」のような役職も存在しなかった。
この体制のまま指揮を一元化しようとすれば、陸軍と海軍のどちらが主導権を握るのかという問題を避けられない。一元化の議論は「陸軍と海軍のどちらが上に立つか」という主導権争いと表裏一体だったのである。
しかも、陸海軍の対等な関係は、当初からのものではない。1893年の戦時大本営条例では、「帝国陸海軍ノ大作戦」を計画する役目は陸軍の参謀総長にあり、海軍トップの海軍軍令部長はその補佐とされた。海上作戦まで陸軍の長が主導する建て付けだった。
日清戦争後、海軍はこの陸軍優位の仕組みの見直しを求めた。日露戦争直前の1903年の改正で、参謀総長と海軍軍令部長は、それぞれ自軍の作戦を担う対等な立場となった。1937年の大本営に「陸軍部」と「海軍部」が並んだのは、こうして成立した陸海軍対等の帰結だった(明治26年勅令第52号、明治36年勅令第293号)。

