知事とのパイプをつくるしたたかさ
行革の最中に行われた1983年の県議選挙では、故郷の筑後市選挙区から無所属で立候補。当時の現職に敗れたものの義父の秘書に復帰し力を蓄えた。1987年の2度目の挑戦では、自民党系の支援団体はもとより革新系団体からも幅広い支持を得て当選した。行革での実績を考えれば、当然の結果だったと言える。
県議になってもこの力は生きた。当時の福岡県は革新派の奥田八二氏が県知事だった。1983年に当選した奥田氏は県民からの人気をバックに、1991年には3選をはたした。自民党は議会内野党として苦い野党生活が続いていた。こうした状況のなかで藏内氏は革新系政治家とのつながりを生かして、奥田知事と自民党県議団のパイプ役に徹したのである。
当時の自民党県議団には、いまの藏内氏にあたるボスがいた。三木清元県議だ。藏内氏は三木氏からの信頼が厚く、県職員からも頼りにされる存在となった。
次の転機は2001年に訪れた。三木氏は藏内氏より1期上の中村明彦氏を後継者と見て、県議会議長就任を促した。だが中村氏はこれを拒み、自民党県連幹事長への就任を希望した。そこで、三木氏は藏内氏に議長就任を促した。藏内氏がこれを受けることによって、中村氏と藏内氏の位置が逆転した。
国会議員の横やりを許さない集団へ
三木氏は中村氏を自民党県議団の運営から外し、藏内氏にすべてを委ねた。そして、2005年には藏内氏が自民党県議団会長に就任。藏内氏が県議団会長に就任して以降、自民党県議団と旧民主党系の民主県政県議団は良好な関係を保っている。現在の「県議会オール与党」ともいうべき体制の確立は藏内氏が築いたといっても過言ではない。
藏内氏が三木氏から受け継いだものは、国会議員の横やりを許さない県議団づくりだった。
福岡県には実力派国会議員がそろっていた。麻生太郎氏、古賀誠氏、山崎拓氏、太田誠一氏などだ。それぞれが自分の選挙区の系列県議を持ち、県議は逆に国会議員の力を利用して支持者からの陳情をこなしていた。藏内氏はこれに目を光らせた。当時の藏内氏を知る元県議はこう話す。
「藏内さんは、県議会は県議会として独立して力を持つべきだ、県議は国会議員の子分であってはならない、という考えを持っていたようです。派閥単位で動くと、議長選挙や常任委員長などの人事もまとまりません。一枚岩の県議会を作るには、自分が県議会のリーダーになる必要がある、と考えたのではないでしょうか」
昨年の中村明彦県議「追放劇」もそういう背景があったのだ。
(中村議員は、2023年の北九州市長選で、麻生太郎氏の意向を受けて自民党福岡県連推薦ではない候補を応援した。これに対して、県議会幹部から事実上の追放宣告を受けた。詳しくは前編参照)



