アルバイト感覚のままヒットを連発

日本が経済成長を遂げた時代はリスクと実利は表裏の関係にあり、「虎穴に入らずんば虎児を得ず」とされた。

だが、長い不景気を経て不確実性の時代になった現代において人生の勝者になるには、「虎穴に【入らずして】虎児を得る」――すなわち、いかにリスクを避け、実利を手に入れるかという「寝業」が求められる。

秋元の人生観と処世術は、鋭敏な感覚によって時代を先取りしたものと読み解くことができるだろう。中央大学に進学すると放送作家として本格的に活動を開始。やがて亀渕の勧めで作詞を手がけるようになる。

作詞をはじめた秋元の才能はすぐに開花。稲垣潤一『ドラマティック・レイン』(1982年)、さらに翌年、長渕剛『GOOD-BYE青春』のヒットで注目されるが、秋元にしてみれば運がよかっただけのことで、自分は作詞家だとも放送作家だとも思わなかった。いつ辞めてもいい。そんなアルバイト感覚で仕事をしていた。

ブレイクの絶頂でニューヨークへ逃避

秋元がさらなる「運」のステップに足をかけるのは、ブレーンとして参加した『オールナイトフジ』(フジテレビ)だ。別の番組で知り合った「とんねるず」の起用を推薦。これによって、とんねるずは一気に弾け、ブームを巻き起こす。

さらに同番組で放映した女子高生スペシャルが当たり、これが新番組『夕やけニャンニャン』につながって「おニャン子クラブ」が大ブレイクする。フジテレビが仕掛けたこの企画を具現化したのが秋元だった。秋元は「おニャン子クラブ」の全楽曲の作詞を担当。

長者番付「その他の部門」で16位となる。翌1988年、「おニャン子クラブ」のメンバーだった高井麻巳子と結婚する。

30歳で「人生の勝者」になったのだ。私たちであればさらに上を目指して奮闘するだろうが、秋元はブレイクに戸惑った。アルバイトのはずが、「責任の生じる立場」に立たされてしまっている。

秋元の言葉を借りれば「このままじゃ、たぶん浮かれて、祭り上げられて、担がれて終わる」との危機感を持った。「垂直志向」のリスクを本能的に嗅ぎ分けていたのだろう。

すべての仕事を整理し、ニューヨークへ“逃避”したのである。