前近代の医療と糖尿病の認識
藤原道長が生きた平安時代の日本では、まだ西洋医学や糖尿病に関する正確な知識は存在していませんでした。当時の医療は、中国から伝わった漢方医学が中心で、病気の原因は「気」や「体内のバランスの乱れ」によるものと考えられていました。
この中で、糖尿病は「消渇」として知られ、身体が渇ききってしまう病気とされていました。
糖尿病の発症が体内の代謝異常によるものであるという理解はなく、治療には主に食事制限や漢方薬、針灸などが用いられました。
藤原道長もこのような治療法を試みたと考えられますが、彼の病状は改善しなかったようです。治療法が限られていたため、道長は糖尿病による合併症が悪化し、最終的に62歳で亡くなったと推測されています。
その後、鎌倉時代や室町時代を通じて、日本における糖尿病に対する理解はほとんど進展しませんでした。しかし、江戸時代に入ると、糖尿病に対する関心が徐々に高まっていきます。特に、江戸時代後期に蘭学医たちがオランダを通じて西洋医学の知識を学び、糖尿病に関する理論が日本にも導入され始めました。
この頃、欧米では糖尿病は「diabetes(※1)」と呼ばれており、日本語では「尿崩」と訳されていました。これは、排尿が過剰になる症状を指しており、次第に「蜜尿病」として知られるようになっていきました。これは、糖尿病をもつ人の尿が甘く、糖を含んでいることに由来する名称です。
このように、糖尿病に対する理解は時代とともに少しずつ進化してきました。
平安時代には未知の病であった糖尿病が、江戸時代に西洋医学の影響を受けることで、徐々にその正体が明らかになっていったのです。糖尿病の歴史は、医学の進展とともに、人々の生活に大きな変革をもたらしました。
糖尿病の病態が次第に解明されて
糖尿病がどのようにして発症するのか、その病態が明らかになるまでには、長い歴史がありました。古代から糖尿病は「尿が甘い」「大量の尿が出る」といった症状で知られていましたが、その原因やメカニズムは謎のままでした。
19世紀から20世紀にかけて、医学と科学が発展する中で、糖尿病の病態も次第に解明されていきました。
糖尿病の初期理解:代謝異常としての糖尿病
糖尿病がただの多尿ではなく、体内の「代謝異常」による病気だと初めて理解されたのは19世紀にフランスの医師で生理学者のクロード・ベルナールによる肝臓の研究がきっかけでした。
それまで、血液の糖分は食事の糖質に由来し、空腹時には血液に糖分は存在しないと考えられていました。しかし、エサを一日中与えなかったイヌの血液に糖分が存在することを発見し、この糖分はどこからきているのかとの疑問をもち解明していきます。
そして、彼は肝臓が糖分をグリコーゲンとして貯蔵して、必要に応じて血液中に放出する役割を果たしているということを発見しました。これによって、糖尿病が体内の糖の代謝異常に関連する病気であるという新しい視点が生まれました。
ベルナールは、糖尿病のある人の肝臓が、通常以上に糖を血液中に放出していることを発見し、これが糖尿病の一因であると考えました。この発見は、糖尿病が単なる尿の問題ではなく、体内の代謝の問題であることを示す重要な一歩でした。
※1 diabetes(ダイアベティス):2023年、一般社団法人日本糖尿病学会とJADEC(公益社団法人日本糖尿病協会)は、国際的に用いられているダイアベティス(diabetes)を糖尿病の新しい呼称案とすることを発表した。呼称の変更は、糖尿病をもつ患者さんに対する差別や偏見をなくし、病気への理解や積極的な治療への取り組みを進めることにもつながるとしている。

