有力者が身に付けてお守りとする勾玉も
「縄文時代には私有財産という発想がなかった」
こういった考えが、近年までひろく受け入れられてきた。ところが縄文時代の遺跡の発掘が進展するなかで、「縄文人の集団は、あらゆるものを共有していた」という発想に、疑問が出されてきた。
縄文時代に多人数の住民が、豊かな暮らしをしていた集落がみられることが明らかになってきたためだ。青森市三内丸山遺跡は、高さ約20メートルの巨大な木製建造物で知られる有力な遺跡である。
縄文時代前期から中期にかけて(約5900年前〜4200年前)続いたその遺跡では、数百人ほどの人びとが定住していた。この三内丸遺跡の住民は意欲的に各地と交易し、ヒスイの勾玉、漆器、アスファルト製品などを入手していた。
三内丸山遺跡は、「縄文都市」とも呼ばれる。三内丸山遺跡から出土したすべての贅沢品を、数百人の住民都市の住民が共有していたのであろうか。
それよりも、「三内丸山に珍しい贅沢品を私有した富裕層もいた」と考えるのが妥当ではあるまいか。つまり三内丸山全体にかかわる祭祀のための特別の勾玉もあった。しかしその他に、有力者が身に付けてお守りとする勾玉もあった。
身分毎に異なる様式で葬られた人骨が出土
そして有力者の勾玉は、有力者の子供たちに相続された。こういった想定もできるのではあるまいか。
このような縄文時代の身分制に関わる、興味深い発見があった。平成9年(1997)に千葉県茂原市の下太田貝塚の墓地から、身分毎に異なる様式で葬られた人骨が出土したのである。
下太田貝塚は、縄文時代の有力な集落が残したものである。そこからは、100体を超える人骨が発見された。
そこから出土した約5000年前から4000年前にあたる縄文中期の人骨は、どれも同じような形式で葬られていた。土坑という土を掘った墓に、屈葬という下半身を折り曲げた形で納められていたのだ。
ところが約4000年前から約3500年前にあたる縄文時代後期の墓には、明らかな身分差がみられる。一方では伸展葬という体をまっすぐ伸ばした形式で丁寧に葬られた人骨がある。
ところがもう一方では、複数の人骨を一つの土坑に無造作に投げ込んだ墓も見られる。こういったことによって、身分の高い有力者のための特別の墓がつくられていたありさまがわかってくる。
下太田貝塚を残した集落で、縄文時代後期の開始にあたる約4000年前頃に独自の身分制がつくられたのであろう。現在のところ、そのような身分制ができた経緯を推測する手掛かりは見付かっていない。

