戦死者の人骨出土の衝撃

11体の人骨のうち、10体が男性のもので、1体が女性のものであった。人骨はすべて10代後半から成人のものだとされた。

そして人骨の調査がすすむ中で、それらの人骨が何らかの戦闘に関わるものだとする見解が出されたのだ。11体の人骨のうち8体の人骨に、鋭利な石器や鈍器で付けられたとみられる傷があったのだ。この傷のなかには、致命傷になったとみられるものまであった。

5人が、石斧や石槍による攻撃による傷で死んだというのである。その他に骨に傷が残らない形で死んだ者もいたと考えてよい。そうすると11体の人骨が出土した墓は、何らかの戦闘の犠牲者をまとめて葬って供養したところだったと考えることができる。

その場合、有珠モシリ遺跡の人間が、自分たちの住む島から出て離れた土地の敵と戦ったとは考えにくい。かれらが、戦死者の遺体をわざわざ故郷まで持ち帰ることは、まずないだろう。

そうすると、陸地から来た侵入者の侵攻を受けて亡くなった人びとが、まとめて葬られたとするのが妥当であろう。有珠モシリ遺跡の住民は、かなり豊かであったと推測できる。

北海道でも富をめぐる戦闘の痕跡

有珠モシリ遺跡からは、イモガイの貝輪を腕に付けた女性の遺骨が出土していた。この貝輪に用いられた大型のイモガイは、九州の南方の南西諸島で採れたものだと考えられている。

有珠モシリ遺跡を残した集団は、日本列島の北から南へと連なる大規模な交易路とつながりを持っていたのだ。そこの住民は、船団を組んで長距離の航海を行なう交易民であったとみられる。

有珠モシリ遺跡の交易民は、遠方から入手した多様な珍しい商品を周辺の集落と取引して大きな利益を上げていたのであろう。有珠モシリは、小さいながらも「縄文都市」と呼ぶべき先進地であった。

そしてそのような縄文都市の富に目を付けた内陸部の集団が、有珠モシリ遺跡の島を襲ったと考えられる。

かれらは普段は狩猟に用いる道具を携え、徒歩で襲ってきたのであろう。有珠モシリ遺跡のある三角形の小島は、干潮時に陸地から歩いて渡れる位置にある。

有珠モシリ遺跡から出土した戦闘痕のある人骨の鑑定によって、それらが2400〜2500年前のものであることが明らかになった。

その時代の西日本では水稲耕作が広まり、弥生時代となっていた。ところがその頃の北海道の人びとは、縄文時代のままの生活を送っていた。

しかし農耕文化が広まる前の北海道でも、富をめぐる戦闘がみられたのだ。

縄文時代の竪穴住居
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