“成り上がり者”に、人を束ねる“格”はなかった
そもそも元親には、人を束ねるための「格」がなかった。
それまで南予に影響力を及ぼしていた土佐一条氏は、五代にわたって婚姻による一族化と寺社ネットワークの構築を積み重ねてきた。しかも一条氏は京から下向した摂関家の流れを汲む。元親に追放された最後の当主は内政。官位は従四位下左近衛中将という高位を持つ。現地の国衆からすれば「従うだけの理由」が制度として存在していた。
対して元親は、土佐の国人の一人にすぎない。たまたま軍事力で版図を広げた、いわば成り上がり者である。権威も正統性もなにもない。国衆にしてみれば「まあ、今は逆らっても損だから」という計算で従っているだけで、心服する理由はどこにもない。
土佐一国は軍事力によって制圧できた元親だが、それ以上に版図を広げるほどの器では無かった。友閑の讒言はたしかに不当だったかもしれない。しかし「このまま放っておけば天下の妨げになる」という耳打ちが信長に刺さったのは、元親の限界を見抜く目が信長にもあったからだろう。讒言が効いたのは、それが的外れではなかったからだ。
一領具足、軍事力の限界
それに、元親の軍事力には限界があった。その中心は「一領具足」、すなわち、平時は農民、戦が始まると具足を持って集まる半農半兵の地侍層である。ようは、常備軍を備えている信長や秀吉からしてみれば、時代遅れの軍隊である。
土佐という閉じた地形の中では、これで十分だった。しかし、阿波・讃岐・伊予は違う。三国はいずれも海に開いており、瀬戸内海を介して外部と直結している。阿波には紀伊水道を渡れば畿内から何度でも兵と兵糧が届く。讃岐の沿岸には来島・能島・因島の村上水軍が睨みを利かせ、伊予は豊予海峡で九州・大友氏と向き合う。陸から攻め込んで一度勝っても、海から再補給されれば敵は何度でも蘇る。
実際、このせいで阿波・讃岐では苦戦を強いられている。
1580年、本願寺との終戦後には、行き場を失った本願寺の牢人衆が海を渡って阿波に押し寄せ、三好方の拠点・勝瑞城を占拠するという事件が起きている。陸で押さえたはずの阿波が、海から来た連中にひっくり返された。
1583年には、秀吉の命を受けた仙石秀久が2000の兵を率いて、淡路から海路で讃岐東端の引田城に上陸した。元親は阿波の白地城から陸路で2万の大軍を動かして迎え撃ち、野戦では仙石勢を退けた。数の上では圧勝である。しかし秀久は四国本土から撤退した後も淡路島と小豆島の守りを固め、瀬戸内の制海権を手放さなかった。元親が陸で勝っても、海の蓋は開かない。敵は島に引いて息を整え、また渡ってくる……。

