讒言者の正体は「松井友閑」か

ここで熊田論文は、先行研究で讒言者として挙げられてきた一条内基・西園寺実益説を退けた上で、新たな人物を特定する。

手がかりは近衛前久の回想録だ。そこにはこう書かれている。

「のふなか(信長)のこ三七(織田信孝)へ、ゆうかん(友閑)さゝへ申、われわれにめいわく(迷惑)させ候ハんとて、せはめられ候」

この文章をもとに、論文は、讒言者の正体は松井友閑であったとされる。

松井友閑は、堺代官を務めながら「信長の御意伝達役」を担うほど重用されており、三好康長と縁も深かった。そこで、友閑は康長視点による四国情勢と元親の動向を信長に報告。結果、信長はこの意見を取り入れ切り取り次第という約束を覆したというわけだ。

つまり、戦場では勝利した元親でも、堺の実力者と元敵将のコンビによる外交戦には、まったく歯が立たなかったのだ。

なお熊田論文のテーマは、タイトルにもある通り本能寺の変の原因の検証である。論文では、この外交敗北こそが本能寺の変の遠因だったと論じている。松井友閑に敗北した光秀は、元親への説得交渉を無視される形で信長に四国攻撃を命じられ、取次役としての立場を完全に否定された。この件で、自らの政治的基盤が崩れていくのを感じた光秀が追い詰められていったというのだ。

実のところ、土佐一国から四国統一を目指した元親は、さまざまなフィクションにも登場する人気の戦国武将である。土佐を統一し、阿波・讃岐・伊予へと版図を広げ、秀吉の征伐が始まる直前には四国をほぼ手中に収めた……と、多くの概説書には書いてある。

長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」(秦神社所蔵品)
長宗我部元親。画名「絹本著色長宗我部元親像」(秦神社所蔵品)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

“国人や土豪の心”までは動かなかったか

だが、「統一」の実態はどうだったのか。

山内治朋「戦国期土佐大名の南予進出の実態と特質」(『愛媛県歴史文化博物館研究紀要』第31号、2026年)は、伊予南部への長宗我部氏の進出を一次史料から検証した論文だ。ここでは、進出の実態をこう結論づけている。

一条氏のような親族化や主従関係といった強固な結束を十分に醸成するまでにはいたらず、暫定的に結び付く与同関係に留まったようだ。範囲も限定的で、軍事制圧も一時的・地域限定的に終わった。南予で恒常性のある国衆掌握はほとんど叶っておらず、影響力も一条氏ほど広域に及ばず、それを軍事侵攻で克服して全域的な制圧を実現することもできなかったのである。

つまり、秀吉の到来直前に実現した「四国統一」は、かりそめの制圧にすぎなかった。現地の国人や土豪とは「とりあえず、一緒にやりましょう」ともいうべき緩い関係はできているものの、主従関係もなければ血縁で結びつくこともできていない。次に強い風が吹けば、あちこちで旗が翻りかねない状態だった。