古文書が明かした「告げ口」の存在
なぜ、ここまでボタンの掛け違いが発生してしまったのか。その謎を検証した論文が、熊田千尋「本能寺の変の再検証――先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合――」(『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号、2020年)だ。
この論文が注目するのは、2014年に公表された『石谷家文書』である。石谷氏とは何者か。元親の正室の父にあたる石谷光政、そしてその養子で明智光秀の重臣・斎藤利三の実兄にあたる石谷頼辰、この一族が交わした書状群が「石谷家文書」だ。
元親の妻の実家が、光秀の家臣団と血縁でつながっていた。光秀が元親の取次役を務めた背景には、こういう縁戚関係があったこともわかる文書だ。
この文書群の中で、論文はまず、本能寺の変から約9カ月後、天正11年(1583年)2月20日付で近衛前久が石谷父子に宛てた書状に注目する。この書状には、こんな一文がある。
去々年冬、於安土種々悪様ニ信長へ申成候者て、既事切之やうニ成候を、われわれ達而信長へ元親無疎意趣を申分、当分御納得、~中略~、あしく申成候ものハ見事の者ニ成、われら毛頭無誤事を悪様ニ申成候事、誠ニ思外ゑんの下の舞とハかやうの事候歟
筆者訳:
一昨年の冬、安土において(元親のことを)いろいろと悪く信長へ申し成した(告げ口した)者がいて、すでに(織田と長宗我部の関係が)決裂しそうな事態になっていました。それを私たちがわざわざ信長に対し「元親殿に敵意はありません」と言い分を申し立てたため、当座は信長も納得したのですが、悪く告げ口した者の方が正しいということになり、私たちのように毛頭も間違いのない者を悪く言い立てられるとは、誠に思いがけないことで、「縁の下の舞」とはまさにこのようなことでしょうか。
ようは、前久らも、元親は信長に敵意がないと説明していたのだが、悪く言うものがあったせいで、対立することになったというわけだ。しかも、この書状では、元親が大鷹二羽を献上したことで関係は良好になりそうだったのに、また「佞人(心のねじ曲がった悪人)」のせいで悪化してしまったとする。そして、本能寺の変後には、この佞人のせいで私も秀吉に悪くいわれてしまったとまで綴るのだ。
ここからは、信長が讒言者の意見を取り入れたことで、四国政策は変更。元親との切り取り次第という約束は覆され、ついには四国侵攻にまで関係が悪化してしまったことがわかる。

