信勝の息子・信澄は生き延びた

勝には遺児がおり、信長に仕えた。「豊臣兄弟!」にも登場する織田信澄のぶずみである(緒形敦が演じる)。弘治元(1555)年生まれで、母は和田備前守の娘・高嶋局たかしまのつぼね。母方の祖父・和田備前守が何者なのかは不明であるが、官途かんとを名乗っているからには名のある武士だと想像される。『織田信長家臣人名辞典』に和田新助が「犬山の織田信清の家老で黒田城主」として掲載されており、その親族なのかも知れない。婚姻の時期は林秀貞が信長・信勝兄弟の離間を画策している頃と推測され、政治的にどのような文脈で婚姻したのかも不明である。

父・信勝が暗殺された時、信澄は満3歳。信勝の旧臣・柴田勝家の下で育てられ、「永禄七(1564)年正月元服して津田を称す(津田信澄)。この日尾張国川西の地を宛行はれ、蝶の紋をゆるさる」という(『寛政重修諸家譜』。ただし尾張には「川西」という地はなく、詳細は不明である)。

織田信澄像『英名百雄傳』(国文学研究資料館所蔵)、江戸時代(出典=国書データベース)
織田信澄像『英名百雄傳』(国文学研究資料館所蔵)、江戸時代(出典=国書データベース

高島郡大溝城主の養子になる

のちに信澄は磯野員昌かずまさの養子になった。厳密な年月は不明である。磯野は浅井長政の家臣で、浅井領の南端・佐和山城を守っていたが、姉川の合戦後に孤立して元亀2(1571)年に投降した。信長は投降した敵に寛容なところがあり、磯野は琵琶湖西岸の高島郡大溝城の城主に登用された。信澄がその養子になったのは天正初年(1573~)といったところであろうか。少なくとも天正4(1576)年には高島にいたことが『兼見卿記』に見えている(『織田信長家臣人名辞典』)。

しかし、磯野は天正6(1578)年に突然、原因不明の逐電を遂げてしまう。信澄への家督継承がこじれたとの説もあるが定かではない。遺領は信澄が継承し、本能寺の変までその支配は続いた。

『寛政重修諸家譜』によれば、「天正六年二月三日近江国大溝の城をたまはる。このとき右府より先祖信定(信貞)伝来の刀及び八樋正宗の脇指をたまはり、桐瓜の紋をゆるさる」といわれ、その翌年の天正7(1579)年頃に明智光秀の四女と結婚したといわれている(『明智軍記』)。

安土城跡に残る織田信澄跡の石碑、滋賀県
安土城跡に残る織田信澄住居跡の石碑、滋賀県(写真=kouko0515/PD-self/Wikimedia Commons