父・信秀の死去で清須織田家は…
その翌年、信秀は末盛城に移住したが、末盛城と清須城とを結ぶ街道の中間に那古野城がある。一方、古渡城は清須城から街道で一直線の場所にある。古渡城から末盛城への移住は、清須織田家を警戒していたからではないか。
清須織田家としては、斎藤道三にそそのかされて信秀の城を攻めたものの、そのあとに道三と信秀が講和するという、ハシゴを外された状況になった。面目丸つぶれである。そして、その関係が悪化したまま、信秀は死去してしまう。
弟の信勝を織田家当主にする動き
信秀の死後、信長は斎藤道三と同盟関係を強化する一方、信勝は信長と距離を置いた。天文23(1554)年、信長は清須織田家を滅ぼして清須城主となり、筆頭家老・林秀貞を那古野城代とした。ところが、林は信勝付きの重臣・柴田勝家と結び、信勝の擁立を企んだ。
弘治2(1556)年、林秀貞の弟・林美作守が700、柴田勝家が1000の兵を率いて出陣。稲生村(名古屋市西区)で信長の兵700弱と合戦に及んだ。信長が勝利し、林・柴田軍は450もの死者を出す大敗を喫した。信長の実母・土田御前が両者の赦免を要請したため、信長は講和に応じた。『信長公記』では、信勝が合戦の場面に一切出てこないが、柴田の参陣は信勝の意図を汲んだものであり、実際には信勝自身も参陣していた可能性が高い。
信勝は信長に敗れ、死に追いやられる
信勝は敗戦後も美濃の斎藤義龍や岩倉織田家と連携して捲土重来を期した。しかし、永禄元(1558)年の秋頃に信長は岩倉織田家を滅ぼし、同じ頃に柴田勝家が信長に通じて、信勝に謀反の兆しありと密告した。同永禄元年11月、信長は病気と偽って信勝を清須城に招き入れて暗殺した(自刃させたともいう)。

