父・信秀の死去で清須織田家は…

その翌年、信秀は末盛城に移住したが、末盛城と清須城とを結ぶ街道の中間に那古野城がある。一方、古渡城は清須城から街道で一直線の場所にある。古渡城から末盛城への移住は、清須織田家を警戒していたからではないか。

清須織田家としては、斎藤道三にそそのかされて信秀の城を攻めたものの、そのあとに道三と信秀が講和するという、ハシゴを外された状況になった。面目丸つぶれである。そして、その関係が悪化したまま、信秀は死去してしまう。

【図表】信長の父・織田信秀の拠点移転図
筆者作成

弟の信勝を織田家当主にする動き

信秀の死後、信長は斎藤道三と同盟関係を強化する一方、信勝は信長と距離を置いた。天文23(1554)年、信長は清須織田家を滅ぼして清須城主となり、筆頭家老・林秀貞を那古野城代とした。ところが、林は信勝付きの重臣・柴田勝家と結び、信勝の擁立を企んだ。