息子2人は八丈島に流され…
豪姫が産んだ息子たちは八丈島での生活を余儀なくされましたが、ひとり娘は咎めを受けることはありませんでした。慶長12年(1607)頃、豪姫はこの娘を連れて金沢に赴くことになります。実兄の前田利長(加賀金沢藩主前田家2代)から生活費(化粧田1500石)を与えられ、金沢城下で暮らしたのです。豪姫の娘は前田家の家臣に嫁ぎ、元和元年(1615)に没しました。豪姫はこれより以前、キリスト教の洗礼を受けています。
洗礼を受け、60歳前後で死去
そして「マリア」という洗礼名を授かったのです(『一六〇六年の年報』)。洗礼を受けたのは、夫や息子たちの加護を祈るためだったのかもしれません。
豪姫は関ヶ原合戦に出陣する夫・秀家の戦勝を大和国長谷寺(本尊の十一面観音)に願文を捧げて祈願していますが、その中に「何事もなく、災難なく、御弓矢の冥加(神仏の援助)がありますように祈念してください」「世上に中納言様は何人もおられますが、御名乗りは、秀家様と申します。よくよく心得て、御祈念をお願いします」との文言があります。夫の無事と戦勝を祈る豪姫の想いが伝わってくる内容です。
秀家を愛していた豪姫ですが、夫や息子たちよりも早く、寛永11年(1634)に金沢で亡くなります。亡くなる前に一目でも良いから夫と息子たちに会いたいと感じたことでしょう。
参考文献
・桑田忠親『太閤秀吉の手紙』(角川書店、1965年)
・立石定夫『戦国宇喜多一族』(新人物往来社、1988年)
・大西泰正『宇喜多秀家』(平凡社、2020年)
・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波書店、2025年)
・『歴史道43 秀長と秀吉』(朝日新聞出版、2026年)


