秀吉「男なら後継者にしたのに…」
天下統一を果たした秀吉は朝鮮や明国を征服せんとしますが、明国征服後は「日本の関白は秀長(秀吉の弟)の養子・秀保か秀家」にしようと構想していました。また秀吉は秀家が病になると医師を遣わし、秀家の容態を案じる書状を出しています。この事から秀家が秀吉に大いにかわいがられていたことが分かるでしょう。
豪姫もまた秀吉にかわいがられます。秀吉が豪姫のことについて触れた有名な書状は文禄2年(1593)のものでしょう(日付は欠いていますが、2月か3月の書状と思われます)。当時は文禄の役(第一次朝鮮出兵)の頃で秀吉は肥前国名護屋に在陣していました。そこに妻の寧から「豪姫が南の御方と名を変えた」との書状が届くのです。秀吉は「おね」(寧)に返事を書きますが、そこに豪姫のことが記されているのです。
秀吉はその書状の中で豪姫のことを「備前の御もじ」と呼んでいます(備前は豪姫の夫・秀家の領地です)。秀吉は豪姫が名を変えて「まんぞく」(満足)していることは承ったと先ず書いています。その上で豪姫が「男」ならば関白にさせたいが「女房」であるのでどうしようもないと記しているのです。
このことから秀吉が豪姫が「男であったならば……」と感じていたことが分かります。秀吉がなぜこのように感じたのか、具体的理由は不明ですが、おそらく豪姫に男勝りのところがあったのでしょう。
宇喜多秀家との間に3子を産む
秀吉は同じ書状の中で豪姫のことを「太閤秘蔵の子」とまで述べています。「太閤(秀吉)の秘蔵っ子であるので、寧よりも上の位にしたい。太閤の位ほどにはしたい」と寧に伝えているのでした。秀吉が豪姫を大切に思っていたことが伝わってくる内容です。秀吉は豪姫の夫・秀家のことも厚遇していましたが、その事も豪姫への溺愛に関係しているかもしれません(もちろん、その逆も言えることですが)。
さて豪姫は夫・秀家との間に子女をもうけています。天正19年(1591)には嫡男の秀高が生まれました。翌年(1592)には娘(理松院)が生まれ、慶長2年(1597)には次男の秀継が誕生しています。
豊臣一門としての扱いを受けていた豪姫の夫・秀家は、秀吉が亡くなる時(1598年)にはいわゆる「五大老」(豊臣政権の職制。徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)の1人となっていました。

