夫は家康と並んで「五大老」に
死の床についた秀吉は、幼い我が子・秀頼の行く末を案じ、秀家にも「(秀家は)秀吉から幼少時より取り立てられているので、秀頼を盛り立てることを逃れることはできない」と遺言しています。多大な恩義に報い、秀頼に忠誠を誓うことを秀吉は秀家に求めたのでした。
そのこともあり、秀家は関ヶ原の戦い(1600年)では徳川家康(東軍)に敵対し、石田三成方(西軍)に加勢することになります。しかし周知のごとく、戦いは西軍の敗北に終わります。
秀家は徳川方の探索を逃れ、九州にまで逃亡することになりました。秀家が遠く九州にまで落ち延びることができたのは、豪姫の実母・芳春院の助力があったからではないかとの説もあります。秀家は薩摩国(現在の鹿児島県)にまで至り、西軍に与していた島津氏に庇護されました。
関ヶ原で負けた夫は薩摩まで逃げ…
ところが、徳川氏と島津氏との和睦が成立したため、秀家の薩摩潜伏が明らかになります。慶長8年(1603)に秀家は伏見に赴き、出頭。島津氏や前田家の嘆願もあって秀家は助命され、慶長11年(1606)、八丈島に流罪となります。秀家のみならず、豪姫との間に生まれた秀高・秀継兄弟も同島に配流となりました。秀高は16歳、次男の秀継はまだ9歳でした。
豪姫の実母・芳春院は八丈島にいる秀家らのもとに衣服や料紙、白米などを届けています。芳春院は「秀家1人が死ねば何もかも済むことなのに」と孫を配流の道連れにした秀家に恨み言を述べています(「村井文書」)。よって秀家に対してはあまり良い感情を持っていなかったでしょうが、芳春院はかわいい孫たちを気に懸けていたと思われます。秀家は本土に戻ることなく、厳しい生活に耐えた末、明暦元年(1655)に八丈島で死去。
嫡男の秀高は慶安元年(1648)に亡くなります。次男の秀継は明暦3年(1657)に病死しました。秀高と秀継には妻子があり、彼らの子孫は7家に分かれることになります。宇喜多一族が赦免され、島外に出ることが許されるのは明治の世になってからでした。


