降伏どころか、戦いを継続した村重
どうだろうか? 有岡城に残した身内を皆殺しにされたというのに、村重は絶望して降伏するどころか、移転先の「花隈城(鼻熊)」をベースに戦いを継続している。攻め寄せてくるのは、旧知の池田恒興(勝三郎)である。もう血みどろの戦いだ。これは決して絶望的な戦いではない。拠点を維持しているだけで織田軍の行動を阻害できる。そのことを村重は完全に理解して戦っている。
だから、前述の天野論文はこの処刑の効果についても明確に結論を出している。
ところが、尼崎城や花熊城の城兵の結束は全く揺るがず、見せしめの効果は全くなかった。信長の戦略も破綻し、単なる憂さ晴らしに終わったために、江戸時代には太田錦城の『梧窓漫筆』などに、信長の残虐さの象徴として、荒木一類の処刑が挙げられている。
信長が「前代未聞」の大量処刑で村重を屈服させようとした判断は、完全に裏目に出たのだ。
背景にあった“毛利氏との関係”
さらに、村重が卑怯な逃亡をして無駄な抵抗をしていたのではないことを分析してみよう。
実のところ、尼崎城と花隈城を維持している限り、織田軍の勝利は困難である。尼崎城は現在も残る尼崎城とは違い、尼崎市大物2丁目付近にあった城。花隈城は神戸市中央区花隈町付近にあった城である。どちらも、当時は海岸にほど近い城で、海を利用して毛利氏との連絡線が維持されていた。
毛利水軍は、1578年11月の第二次木津川口の戦いにおいて、新たに建造された鉄で装甲された大安宅船を持つ織田方の九鬼水軍に敗れたとされる。しかし、現実では、マンガのように新兵器で情勢が一発逆転することはあり得ない。
この敗北で、毛利水軍は大阪湾の完全な制海権を失いはしたものの、依然として尼崎城や花隈城を拠点に勢力を維持していた。
特に古来の港町である大物浦を押さえる尼崎城は、石山本願寺の目と鼻の先である。巨大船を投入して毛利水軍に勝った織田軍だが、依然として毛利氏や雑賀衆の軍勢が悠々と上陸できる状況が残っており、制海権も掌握できていなかった。


