戦線を組み替えた指揮官の行動

この書状から何が読み取れるか。

この時点で織田方は、有岡城だけでなく、尼崎城も攻撃をしている。しかも尼崎城を攻撃しているのは織田信忠。それも、尼崎城の周囲に包囲するための小屋も築いている状態だ。

対する尼崎城は、村重が有岡城から連れてきた家臣を含めても6〜700人しかいない。既に家臣の伊丹九兵衛を、宗勝に派遣して毛利の援軍を花隈城に送るよう依頼している。今回、新たに日志という家臣も送るので、一刻も早く毛利の援軍を送ってくれ、というわけだ。

書状を書いた日付は9月11日、有岡城を出てからわずか9日後だ。村重はすでに尼崎城から毛利方へ援軍を催促し、花隈城への増援を求め、使者を二人も動かしている。逃げた男の行動ではない。戦線を組み替えた指揮官の行動だ。同時に、尼崎城も攻撃されているのに毛利の援軍が到着しないことに、いらだっている様子も窺える。

『信長公記』によれば、情勢が動いたのは11月19日になってからだ。この日についに、家臣の荒木久左衛門(本名は池田重成)は開城を決意し、織田信澄が入城することとなった。

同時に、久左衛門は、織田方と尼崎・花隈の二つの城を明け渡して降伏すれば妻子を助けるという条件をまとめ、尼崎城の村重を説得することになった。

“説得はうまくいかない”とわかっていたか

ところが『信長公記』をみると、この説得は最初からうまくはいかないことがわかっていたようだ。というのも、この記述の後に久左衛門が次のような歌を詠んだとしている。

いくたびも 毛利を頼みに ありをかや けふ思ひたつ あまのはごろも

【歌の意味 *筆者訳】
何度も「毛利の援軍が助けに来てくれる」と信じて、ここ有岡の城で待ち続けていたのだろうか。それなのに、ついに見捨てられたと知り今日この地を思い切って旅立つ、あま(天=尼)の羽衣のように……。

伊丹城(有岡城)跡。2006年9月15日、兵庫県伊丹市
伊丹城(有岡城)跡。2006年9月15日、兵庫県伊丹市(写真=BJP039/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

完全に「殿!! いくら待っても毛利の援軍なんか来ない。なんで来ないのがわかっていても降伏しないんだ」という心境である。