“不安な妻子ら”は、覚悟を決めていたか

さらに『信長公記』のこの日の記述には、降伏後城内に止めおかれて、不安な妻子らは村重に歌を送り、村重も返歌したと記している。例えば、お千代なる女性とのやりとりはこうだ。

此ほどの 思ひし花は ちり行て 形見になるぞ 君が面かげ

【歌の意味 *筆者訳
これまで大切に思われ、美しく咲いていた(私たちという)花は、もう散っていってしまいます。これからは、あなたの心の中に残る私たちの面影だけが、せめてもの形見となるのでしょう。

 

荒木返歌
百年に 思ひし事は 夢なれや また後の代の 又後の世は

【歌の意味 *筆者訳
百年(末永く)一緒にいようと願っていたことは、すべて儚い夢だったのだろうか。せめて、来世の、そのまた次の来世(生まれ変わった遠い未来)でこそは、再び一緒になろう

おそらくは創作だろう。作者である太田牛一は記録を取ることに熱心だったようだが、さすがに城内の様子までわかるはずがない。ともあれ村重は絶対に降伏しない=私たちは全員処刑と覚悟を決めていたことがうかがえる。

実にその通りで、前述の久左衛門は村重を説得することはできなかった。当然である。有岡城が落ちようとも、海に面した二城があれば、毛利水軍による補給はでき、継戦は可能。村重にしてみれば「まだ戦えるのに、降伏など論外」である。

こうして、説得に失敗した久左衛門は淡路岩屋に逃れた(谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年)とも、剃髪して落ち延びた(香村菊雄『謎の武将荒木村重と伊丹城』神戸新聞出版センター、1983年)ともいわれている。

「哀れな様子は、言葉では言い尽くせないほど」

こうして絶望的な状況で捕虜になった有岡城の人々。『信長公記』では、12月1日にこんなことが起こったと記している。

十二月朔日、丹波より居る上せ、進上。

さる程に、伊丹の城に女どもの警固として、吹田すいた泊々部ほっかべ、池田和泉、両三人残し置き候とのところに、城中の様子、何と見究め申し候やらん、池田和泉、一首をつらね、

露の身の消ても心残り行なにとかならんみとり子の末

と、よみ置き、其の後、鉄炮に薬をこみ、おのれとあたまを打ちくだき、自害仕り候。いよいよ、女房ども、心も心ならず、尼崎よりの迎へを、おそしはやしと、相待ち、哀れなる有様、中々申すばかりも是れなし。

【筆者訳】
十二月一日、丹波(明智光秀らの軍)より城を受け取りにやって来て、(織田方に城を)進上した。

そういうわけで、伊丹の城(有岡城)に女性たちの警護(監視役)として、吹田、泊々部、池田和泉の二、三人が残し置かれたということだ。城の中の様子を、一体どのような気持ちで見極めようとしたのだろうか。池田和泉が一首の歌を詠んだ。

露のように儚い私の命が(ここで自害して)消え去ってしまおうとも、どうしても心残りでならない。まだ物心もつかない、みとり子(幼子・赤ちゃん)のこれからの行く末は、一体どうなってしまうのだろうか

と、詠み置いて、その後、鉄砲に火薬を詰め、自分自身の頭を撃ち砕いて自害いたしました。いよいよ、女房(妻)たちも、どうすることもできず、尼崎からの(処刑場へ連行するための)迎えを、「遅いか早いか」とただ待ち受けている、その哀れな様子は、言葉では言い尽くせないほどであります。

「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」
「太平記英勇伝三十八 荒木摂津守村重」(写真=歌川芳幾画/東京都立図書館/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

この池田和泉守は、久左衛門が去った後の城中の責任者だったようで、まさに進退窮まってのことだったのだろう。