『信長公記』にも見えた“村重への怒り”
こうして、捕らえられた妻子は尼崎で、村重の一族は京で処刑されることが決まった。『信長公記』では12月13日に尼崎で五百十余人が処刑、16日に一族と重臣の妻子は洛中を引き回しの上で六条河原で斬首されたという。
『信長公記』は太田牛一本人もみていたのか、この記述が長い。その上で、よっぽど凄惨だったのか、牛一は、最後にこう記している。
栴檀は、二葉よりしてかんばしく、荒木一人の所為にて、一門親類上下の数をえ知らぬの御僧達、死後を取り隠し申さるゝ生便しき御成敗、上古よりの初めなり。
【筆者訳】
「栴檀は双葉のころから芳しい香りを放つ」ということわざの通り、(まだ幼くとも健気に最期を迎えた子供たちであった)。すべては荒木村重、ただ一人のしでかした事(謀反と逃亡)のせいで、一門や親類、身分の上下も分からないほどの多くの人々や僧侶たちが(巻き添えになり)、その死体を取り片付けることすら追いつかないほどの、この凄まじい大量処刑は、大昔から聞いたこともない前代未聞の出来事である。
「生便しき御成敗、上古よりの初めなり」と記しているあたり牛一も「村重ひとりのせいで、とんでもないことになってしまった。こんな処刑、大昔から聞いたこともない」という素の感情がそのまま出てしまっている。単なる同情ではない、こんなに大勢の女性や子供、中には妊娠している者まで処刑されているのに村重は逃亡している、という怒りが出ている。というか、どういう意図なのか、主な者の名前とか身重であるとか、やたらと詳細で気持ち悪い。
家族が処刑されるも、村重は花隈城へ
こうして家族も皆処刑されてしまった村重だが、まったく抵抗は諦めていない。翌年3月になると、花隈城に移り、まだ死闘を繰り広げている。
閏三月二日、御敵城鼻熊より池田勝三郎取出へ人数を出だし候。則ち、足軽ども取合せ候のところ、池田勝九郎・池田幸新兄弟、年齢十五、六。誠に若年にて、無体に懸け込み、火花を散らし、一戦に及ばれ、父池田勝三郎、これ又、懸け付け、鎗下にて究竟の者五、六人討ち捕り、兄弟高名比類なき働きなり。
【筆者訳】
閏3月2日、敵の城である花隈城から、池田勝三郎(恒興)が守る砦へと(荒木軍が)軍勢を出撃させてきた。すぐに(織田方の)足軽たちが応戦したところ、池田勝三郎の息子である池田勝九郎(元助)・池田幸新(輝政)の兄弟、年齢はまだ15、16歳であったが、本当に若い身空でありながら、向こう見ずに(敵陣へ)突撃し、火花を散らす激しい戦闘を展開した。
父の池田勝三郎もこれを聞いてすぐに駆け付け、激しい白兵戦(槍の下)のなかで敵の屈強な武者5、6人を討ち取った。この兄弟の手柄は、比類なき見事な働きであった。


