一族丸ごと信長に捧げた「森家」
森乱が生まれた森家の面々と、彼の最期についても書いておきたい。
森乱の父・森可成が織田家に仕えたのは天文23(1554)年頃とされている。桶狭間の戦いや美濃攻略戦などで戦功をあげて金山城(岐阜県可児市)を与えられたが、元亀元年(1570)の宇佐山城(滋賀県大津市)の戦いにおいて、浅井長政・浅倉義景・比叡山延暦寺の連合軍の前に討ち死にする。
可成には6人の男子がいた。長男・可隆は元亀元年の戦いで命を落とし、森の家督は次男・長可が継いだが、彼も天正12(1584)年に戦死する。
森乱は三男で、四男・森坊、五男・森力と一緒に本能寺で没した。このため六男・忠政が後継となり、のちに美作津山藩(岡山県)の初代藩主となった。
この記事の主人公である森乱は、森坊・森力の二人の弟と共に信長の近くに仕えていたわけで、兄弟3人が同時に近習だったのだから、森家に対する信頼はかなり高かったことがうかがえる。
信長が見ていたのは、容姿ではなく頭だった
特に森乱は逸話の多い人物だ。あるとき信長が「障子を開けたまま来てしまったから、閉めてこい」といった。森乱が行ってみると、信長の思い違いで障子は閉まっていた。
それを見ていったん障子を開け、わざと大きく音をたてるように閉めた。まがりなりにも信長が「開けたまま来てしまった」といったからには、恥をかかせないよう、皆に障子が閉まる音をあえて聞かせたというのである。
この類のいわば気配りのエピソードが、森乱には多い。多分に話を盛っているだろうが、それだけ信長に尽くす、優秀な人物像を彷彿とさせる。
実際に天正9(1581)年には、17歳で近江国に500石の知行を与えられ、翌年には5万石の城持ちになったとの説もある。その待遇からも、単なる小姓ではない、行政実務に長けた次代の吏僚(官僚)候補だったと見て良いと思われる。
信長はあくまで能力を買って重用した。その抜擢が後世、男色関係にあったかのように曲解された、と考えるのが自然ではないだろうか。
森乱は「美少年の小姓」という従来のイメージを離れ、その実像に目を向ける時期に来ているのかもしれない。
参考図書
・谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(吉川弘文館、2010年)
・乃至政彦『戦国武将と男色 増補版』(ちくま文庫、2024年)
・太田牛一著、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫、2013年)
・『歴史群像シリーズ20 激闘・織田軍団』(学習研究社、1990年)


