悲しみ叫ぶ声は天にも響くほど
加えて、摂津国でそれなりの地位にいる者の妻子が選び出され、翌13日午前8時ごろ、尼崎に近い七松(現・尼崎市)で磔にかけられた。『信長公記』はこう記す。
〈さすがに歴々の妻女たちであったから、衣装を美しく着飾り、逃れられぬ運命と悟って神妙に並んでいた。この美しい妻女たちを、いかにも荒々しい武士たちが受け取って、幼児がいれば母親に抱かせたまま、次々と柱に引き上げ、磔に掛けた。そうして次々と鉄砲で撃ち殺し、または槍や薙刀で刺し殺した。
百二十二人の妻女たちが一斉に悲しみ叫ぶ声は天にも響くほどで、これを見守る人々は、目もくらみ心も消えて、同情の涙を押さえることができなかった。見た人は、二十日も三十日もの間、成敗された妻女たちの顔が浮かんで、忘れられなかったそうである〉
書いていて息苦しくなるが、読者は大丈夫だろうか。しかし、これでは終わらなかった。ここまでは村重の身内と上級武士の妻子にかぎられている。有岡城にはほかにも籠城する者が多くいたが、その人たちも処刑された。ふたたび『信長公記』から。
〈このほかに、女三百八十八人、これは中級以下の武士の妻子と侍女である。男百二十四人、これは歴々の妻女たちに付けられていた若党その他である。合計五百十余人。矢部家定が検使を命じられ、これを家四軒に押し込め、枯れ草を積んで焼き殺した。
風が起こり火が廻るにつれて、魚が反り反り飛びはねるように、あちこちとなだれ寄り、焦熱の炎にむせび、躍り上がり跳び上がり、悲鳴は煙とともに空に響いた。地獄の鬼の呵責もこれかと思われた。肝も魂も消え失せて、二目と見られる人はいなかった〉
村重のまさかの末路
フロイスも〈第三の処刑はさらに比較にならぬほど残酷で非人道的、かつ恐怖すべきものであった〉と書き、こう続けている。
実際、よく聞く地獄の責め苦のレベルを超えている。では、当の村重はどうなったのだろうか。尼崎城で抵抗したのち、花隈城に移って籠城を続けたが、天正8年(1580)7月に落城すると、毛利氏のもとに亡命した。その間も、信長は村重の一族を見つけるたびに斬殺したが、本人だけはしぶとく生き延び、本能寺の変後に堺の茶人として復活している。
自分の謀反が原因で虐殺された家族や親族、家臣の妻子らのことを、どう思っていたのだろうか。精神的によほどタフであったのか、あるいは、よほど鈍かったのか。いずれにせよ常人でなかったことはまちがいない。


