見捨てられた妻子たちの末路
さて、村重は居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城し、信長の嫡男の信忠が率いる軍に対し、1年近くにわたって徹底抗戦した。だが、天正7年(1579)9月、突如として伊丹城から逃亡してしまう。『信長公記』には〈九月二日夜、荒木村重が五、六人の供を従え伊丹城(註・有岡城のこと)を忍び出て、尼崎の城に移った〉と書かれている。
この「逃亡」に関しては、本願寺や毛利との連携をたもつために、戦略的に尼崎城(兵庫県尼崎市)および花隈城(神戸市中央区)に撤退する必要があった、という見方もある。だが、いずれにせよ、自身の妻子および家臣とその妻子らは、有岡城に残されたままになってしまった。その2カ月後のことが、『信長公記』にこう書かれている。
〈十一月十九日、伊丹城に立て籠もっていた荒木久左衛門その他、主だった部将たちは、妻子を人質として城に残し、尼崎の城へ退去した。これは、尼崎・花隈の二城を明け渡せば人質の妻子らを助命するという、織田方が提示した条件を荒木村重に伝え、説得するためであった〉
久左衛門らは、せめて妻子だけでも助かるために、信長の出した条件を受けるべきだと考えた、ということだろうか。ところが、村重はその条件を受け入れなかった。そうしたら今度は久左衛門まで、有岡城にいる妻子らを見捨てて逃げてしまった。そこで信長は見せしめに、有岡城に残された妻子たちを「成敗」することになった。
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