見捨てられた妻子たちの末路
さて、村重は居城の有岡城(兵庫県伊丹市)に籠城し、信長の嫡男の信忠が率いる軍に対し、1年近くにわたって徹底抗戦した。だが、天正7年(1579)9月、突如として伊丹城から逃亡してしまう。『信長公記』には〈九月二日夜、荒木村重が五、六人の供を従え伊丹城(註・有岡城のこと)を忍び出て、尼崎の城に移った〉と書かれている。
この「逃亡」に関しては、本願寺や毛利との連携をたもつために、戦略的に尼崎城(兵庫県尼崎市)および花隈城(神戸市中央区)に撤退する必要があった、という見方もある。だが、いずれにせよ、自身の妻子および家臣とその妻子らは、有岡城に残されたままになってしまった。その2カ月後のことが、『信長公記』にこう書かれている。
久左衛門らは、せめて妻子だけでも助かるために、信長の出した条件を受けるべきだと考えた、ということだろうか。ところが、村重はその条件を受け入れなかった。そうしたら今度は久左衛門まで、有岡城にいる妻子らを見捨てて逃げてしまった。そこで信長は見せしめに、有岡城に残された妻子たちを「成敗」することになった。
村重に加えて久左衛門までが人質を捨てたので、ただでさえ激しかった信長の怒りが倍加したのだろうか。「成敗」は凄惨を極めた。その内容を伝えるにあたっては、脚色を避けるために、少し長くなるが『信長公記』の引用を軸に記したい。
信長が考えた処刑法
〈伊丹城に残された多くの妻子たちは、現在の情況を聞かされて、これは夢なのか現実なのかと迷い、いとしい者たちとの別れの悲しさを何にもたとえようがなかった。
あるいは幼い子を抱え、あるいは妊娠している者もいた。さて、どうしたらよいかと嘆きつつ、もだえこがれ、声も惜しまずに泣き悲しむ有様は、目も当てられなかった。
この様子を見聞きすると、気丈な武士といえども岩や木ではないから、涙を流さぬ者はなかった。
信長は山崎で情況の報告を受け、かわいそうだとは思ったが、悪人を懲らしめるために伊丹城の人質を成敗するよう、詳細に命令を出した〉『信長公記』
村重の身内の女性30人余りは、12月12日に京都に護送され、斬首された。そのときの模様は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの『日本史』から引用する。
〈まず彼(註・信長)は荒木の妻をはじめ、二人の娘、兄弟、彼女の兄弟姉妹、さらにすべての従兄弟たち、甥たち、近親らすべて三十六名を捕えることを命じて、都へ送った。彼らは同所で、死刑の判決を記した板を立てた荷車に乗せられて、市の全部の重立った通りを連行されたが、それは死よりもはなはだしい恥辱と不面目に値するものであった。(中略)
津の国の領主の婦人でだしと呼ぶ荒木の妻は、天性の美貌と貞淑さの持主で、つねに顔に大いなる安らぎを示していたが、車から降りる前に、頭上の振り乱れていた髪を結び、身だしなみをより保つため、腰帯を締め、時の習慣に従い、幾重にも重ねた高価な衣裳を整えた。(中略)
かくて彼女、および他のすべての者はそこで斬首された〉(松田毅一・川崎桃太訳、以下同)

