「南モンゴルでは血の匂いがした」
滕海清将軍の派遣に次いで、林彪は部下の家維山を「内モンゴル征服者」として内モンゴル前線指揮部に司令官として派遣した。こうしてモンゴル人の虐殺が大々的に展開された。
しかし、このジェノサイドは当時、国際社会に伝わらなかった。中国も事実を隠蔽し、『人民中国』1968年3月号で「赤い太陽は内蒙古草原を照らす!」という特集を組んでいる。
この年はちょうど虐殺がおこなわれていた時期にもかかわらず、「首都北京から若い男女三百余名が牧畜民として草原に住みつくためにやってくる」とのニュースを喜ぶ現地人の様子をでっち上げている。
ほぼ同じ時期に共同通信と朝日新聞も内モンゴルを訪問し、同じようなタイトルの記事を掲載している。
その後、私は2008年にモンゴル国(北モンゴル)のある外交官に会ったとき、「あなた方は当時、南(内)モンゴルの同胞たちが殺されていたのを知らなかったのですか?」と聞いたら、「もちろん、知っていた。当時の南モンゴルでは血の匂いがした」と語った。
満洲国時代に興安軍官学校を卒業したその外交官は国際列車に乗って、モスクワからモンゴルを経由して北京へ行き、さらにベトナムに赴任しようとしたとき、南モンゴルを通過した。住民の表情は暗く、血の匂いがするようだったという。
本当に匂ったわけではなく、比喩的表現だが、当時の社会的雰囲気を見事に感じ取っているのである。
華僑を中国に送り返す外交紛争が勃発
一方、モンゴル人民共和国(北モンゴル)においても中国は毛語録を配布し、約2000人いた華僑に対して政治闘争を呼びかけた。これは明らかな内政干渉であり、モンゴル人民共和国は対抗措置として華僑を中国に送り返す外交紛争も起きた。
紅衛兵たちがソ連とモンゴル人民共和国を修正主義国家として批判していた当時、モンゴル人民共和国の外交官が北京市内を歩いていて、たまたま地面に落ちていた新聞を踏んづけた。
その新聞には毛沢東の肖像画が掲載されていたことから、紅衛兵がその外交官を吊るし上げるという事件も起きている。外交官は外交特権があるので、警察も手を出せないのに紅衛兵はお構いなしにやってしまった。
さらに、調子に乗った紅衛兵は内モンゴル自治区を廃止して、「反修(反修正主義)省」に改名しようと提案したが、さすがに却下された。

