珍宝島事件で惨敗した人民解放軍

内モンゴル自治区でモンゴル人の不満が高まるとともに、中国は当時、ソ連と同盟国のモンゴル人民共和国に駐留するソ連軍の南下を防ぐ戦略に迫られた。

そこで中国は、東方の黒龍江省北部でソ連との国境となるアムール川の支流、ウスリー川中流域の小島・珍宝島(ロシア語で「ダマンスキー島」)でソ連軍を故意に挑発し、衝突に至る。

1969年3月の出来事で、「珍宝島事件」という。この戦いで、人民解放軍は惨敗を喫した。その後も領土権争いは長く続き、1991年に中国領とすることで解決したが、後日明らかになったことには、1969年の紛争時は中ソ両軍とも核を用意していたらしい。

珍宝島
珍宝島(画像=TowerCard/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

このように、国内の不満を外に向けるために紛争を起こすのは、中国の常套手段である。たとえば文化大革命後、ベトナムに対する中越戦争(1979年)が挙げられる。

中ソ対立は意外にも前章で述べた林彪元帥の墜落死で、沈着の方向へ向かう。林彪の飛行機が落ちたモンゴル人民共和国には当時、ソ連が大軍を駐屯させていた。中国はそれを「百万の軍隊で圧力をかけている」と反論しながらも、実力の面では歯が立たないと知っていた。

ソ連とモンゴル人民共和国軍が仮に1945年8月のように再び南下してきたら、大量虐殺で不満が頂点に達していた南モンゴル人も再度、呼応するのが分かっていたからである。

新疆ウイグル自治区の地政学

新疆ウイグル自治区も、モンゴル自治区と本質は同じである。ウイグル人もまた独立を望み、ウイグル人のイミンノフが「5人委員会」を創設した。「ウイグルスタン共和国」の成立を目指した。彼はモンゴルのウラーンフーのような存在だ。

1944年月、東トルキスタン共和国の建国を宣言する。この国の国民と軍隊は主にウイグル人、カザフ人、モンゴル人である。いわば三民族の合同革命で成立した共和国だ。その幹部たちはみなソ連留学生で、モスクワも当時は態度を曖昧にしていた。

三民族は当然、ソ連邦への加入、少なくともモンゴル人民共和国との統一を望んでいたが、スターリンの対応は冷淡だった。

ソ連邦への参加が絶たれると、今度はモンゴル人民共和国との統一を狙う。このことは日本ではあまり知られていないが、モンゴル人民共和国からすると新疆北部の併合は国家戦略上、ごく自然な発想である。

紀元前3世紀から紀元1世紀後半まで勢力を誇った匈奴の時代から、今日のカザフスタンや新疆一帯を指す西域は重要な場所だった。モンゴル高原で南面して立つと、匈奴は西域を自国の右腕だと認識していた。

漢は匈奴によって絶えず脅かされており、武帝は張騫ちようけんを月氏に派遣して同盟を結び、東西から匈奴を挟み撃ちにしようと考えた。

当時も、やはり西域が重要な拠点だった。古くから中国の西方に位置する中央アジア諸国は西域三十六国と総称されていたが、この3カ国を攻略して支配下に置けば匈奴の勢力を弱めることができるわけだ。

この地政学は現代にも適用できる。ウイグル人、カザフ人、モンゴル人も同様の戦略を考えたし、モンゴル人民共和国も熱心に応じたわけだが、現実は断念せざるをえなかった。