漢人を送り込みウイグル人の人口と逆転

1957年、中国は新疆ウイグル自治区で反右派闘争をおこない、民族右派の摘発を進めた。3000人以上が摘発され、新疆ではソ連留学生組が全滅した。

毛は自分の手下を派遣して、足元から崩壊させる「沙を混ぜる」政策として「生産建設兵団」を派遣した。人民解放軍と中国共産党に帰順した国民党の敗残兵を屯田兵として新疆に送り込んだのだ。        

ウイグル人がそれまで住んでいたオアシスをすべて占領し、屯田兵が開拓していった。生産建設兵団を現地に定着させるため上海と山東省の売春婦たちを大量に送り込むと共に、毛の出身地である湖南省の少女たちを人民解放軍兵士として派遣した。

女性たちの意思など無視して現地の兵隊たちに「分配」され、家族をつくって定着する。当初2万人しかいなかった漢人が800万人にも膨れ上がり、ウイグル人との人口が逆転する。現在は1000万人を超えると算定される。

当然ながらウイグル人の不満が高まり、1962年4月から6月にかけて、新疆ウイグル自治区西部イリ、タルバガタイ地域で中国の支配に抵抗したウイグル人とカザフ人約6万7000人がソ連へ亡命した。

中国新疆ウイグル自治区ウルムチ市
中国新疆ウイグル自治区ウルムチ市(画像=Alexander Flühmann/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons

漢人はほぼ例外なく現地人を敵視

彼らは今もカザフスタンやウズベキスタンにおり、私は継続的にインタビューを実施している。ただし、両国とも中国に融和的なのであまり熱心に応じてくれないのも現状である。

このようにモンゴル人もウイグル人も独立と建国を望んだが、叶わなかった。ソ連邦への参加も拒絶された。ソ連型の自治共和国も実現できず、中国から敵視され、文化大革命で粛清されることになる。

内モンゴルも新疆ウイグルも中国に対して強烈な不信感をもっているので、1966年に文化大革命が始まったとき、運動には熱心に参加していないし、また参加できない。

そのため、内モンゴル自治区でも新疆ウイグル自治区においても、造反派・保守派とも現地の中国人すなわち漢人が主体で、モンゴル人やウイグル人はほとんど関与していない。

漢人すなわち中国人はほぼ例外なく現地人を敵視しているので、造反派も保守派も摘発や弾圧が始まると、一致団結して向かってくる。その結果、民族間の対立が鮮明になり、ジェノサイドが起こった。