「漢人も犠牲者」説は成り立たない

チベットも同様だ。チベット蜂起によって1959年にダライ・ラマ1世が人民解放軍の攻撃に対してインドに亡命し、チベット臨時政府の樹立を宣言する。法王を慕うチベット人たち8万人もインドに亡命した。

中国政府の記録によれば、1959年3月から年3月までに人民解放軍は9万3000人のチベット人を虐殺している。チベット動乱の犠牲者は総人口の5分の1にあたる120万人とする研究者もいる。

チベットに残された人たちも中国に抵抗するが、なすすべもなく弾圧された。

こうした民族弾圧について、中国では「文化大革命中は、ウイグル人もモンゴル人もチベット人も漢人も犠牲者だった」とか、「国家主席の劉少奇のような地位の高い人も粛清されているのだから、漢人も被害者だ」という言説をろうする人もいる。だが、私はその言い分はまったく成り立たないと考える。

なぜなら、内モンゴルも新疆ウイグルもチベットも中国人は少数民族に対して団結して弾圧に加わった。造反派も保守派も、幹部も軍人も学生もエリートも農民も、政府側に立って少数民族を執拗しつように攻撃したのだ。

また、「劉少奇も被害者だ」という言説は人命軽視である。劉少奇も、名も知れないウイグル人もモンゴル人もチベット人も同じ命である。私はそういう見方があるからこそ、中国で文化大革命研究が停滞していると考える。

「アイヌを原始民族扱いしている」と糾弾

1969年春のある日、東京大学文化人類学教室に教官の祖父江孝男そふえたかお(1926〜2012、国立民族学博物館名誉教授)が入ろうとすると、博士課程の学生だった清水昭俊あきとし(1942〜、国立民族学博物館名誉教授)たちが、赤旗を持って抗議の陣を張った。

彼らは「文化人類学(民族学)は植民地、アメリカ帝国主義の学問・理論であり、我々が学ぶ必要はない。しかも、アイヌを原始民族扱いしている」と祖父江を糾弾した。いわゆる全共闘系「文化人類学コース闘争」である。

清水の一橋大学最終講義『これまでの仕事、これからの仕事』(『くにたち人類学研究』収録)などによると、1968年に日本の人類学会と民族学会が国際会議を開催し、世界中から集まってきた学者たちを連れて北海道のアイヌ村を訪れる際、旅行会社の宣伝文で「目の前に原始民族をみることができます」といううたい文句があったらしい。

北海道阿寒市のアイヌコタン村の入り口
写真=iStock.com/petesphotography
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清水も「これはけしからん」と思い、組織委員会に手紙を送り、「こんなことを人類学者がやっていいのか?」と抗議し、アイヌツアーを中止した方がいいと書いている。祖父江がアイヌ民族を差別したわけではないが、文化人類学の泰斗たいとに文句をいいたかったのだろう。