五・一六通知――文化革命発動の号砲

毛沢東と並ぶ国家主席が、なぜこのような結末に至ったのか。

楊海英『未完の中国文化大革命』(PHP研究所)
楊海英『未完の中国文化大革命』(PHP研究所)

1966年5月4日から2日にかけて、北京で中共中央政治局拡大会議が開かれた。主催は劉少奇である。

5月16日に「五・一六通知」が出て、文化革命が発動した。

「破壊こそ革命、破壊こそ批判精神だ。反革命修正主義分子は我々の身辺に眠っている」

こうした過激な文言が入っていたが、この時点では「身辺のフルシチョフ」が誰かは分からなかった。会議主催者が劉自身だったからである。

毛沢東は、少なくとも1962年から劉少奇をソ連の指導者フルシチョフのような人物だと(人民公社)見なしていたと思われる。毛は理想論でコミーンを実現したいが、幹部は腐敗し、農民は無学である。毛は階級闘争の視点で世界を見ている。

劉少奇からすると、すでに自身が進めた地主階級の問題は土地改革で終わった、国民党は台湾へ移ったから、もういない。しかし、毛からすると、動かない劉はフルシチョフであり、自分の死後には「スターリン批判」のように否定される恐れがあった。

劉は親ソ派でもあるが、当時「フルシチョフみたいな奴がいるぞ」といわれても、大半の人が分からなかった。

他方で劉少奇は、革命を共産党の伝統通りの「上からの文化革命」と理解した。5月1日から大量の工作組を大学・高校・政府機関へ矢継ぎ早に派遣した。6月には北京市の各機関に約1万人の幹部を送り込み、文化革命をリードさせた。

共産党員が劉少奇の指示で来たと誰もが理解した。毛沢東も態度を明確にしなかったが、劉少奇とその側近には黙認していたように見えた。

しかし、1957年の反右派闘争で、毛が「引蛇出洞(蛇を穴から引き出す、陽謀作戦)」策を用いた前例の記憶が生々しかった。各級の政府幹部も学校側も「またやられる」と慎重・消極的に対応した。

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