45日間もストーブであぶってから外に放り出す

王光美は民兵隊長の関景東を使って、別の大隊長・呉臣を「ルンペン的で腐敗した幹部」として打倒した。

呉臣に自白を強要し、45日間もストーブであぶってから外に放り出すなどのリンチ(熱烈邦助、冷静思考)を加えた。最終的に「桃園生産大隊は実質上、反動的な国民党の党支部だ」と断罪した。

副書記の趙樹椿は腕時計や自転車の転売で汚職犯として吊るし上げられ、暴力の後遺症で1966年に死亡した。一部住民を動員して他の住民に暴力を加えさせ、自白を強要する。

伝統的な農村秩序を破壊する土地改革時の手法が再現された。並行して帳簿・倉庫・財産・労働点ない都調査され、「国民党数滓ざんしが共産党を腐敗させた」という結論が導かれた。

桃園経験の称賛と批判

王光美は1964年7月5日、河北省党委員会と毛に報告書を提出した。「ある生産大隊における社会主義教育運動の経験総括」、通称「桃園経験」である。

毛は直々に称賛した。

「よくやった」

9月1日、毛は「桃園経験」を全国に公文書として転送した。

しかし、後年「無産階級文化大革命学習資料」で、人民解放軍と『人民日報』がてのひらを返して、「桃園経験」の暴力を批判することになる。

毛はここで運動をバージョンアップした。単なる帳簿・倉庫・財産・労働点数の小さな問題ではなく、「政治・経済・思想・組織」の大問題だとして、四清は「大四清」へと拡大された。

社会主義教育運動として全国に推進され、「修正主義」の芽を摘むという名目が強化された。

劉少奇夫妻の経験によって、農村に残存していた「法網から漏れた搾取階級の地主や反動的な国民党員の一掃」が進んだ。毛の認識する「階級闘争」は、打倒対象たる劉少奇と夫人の手で着実に推進される構図になったのである。