不発だった上からの文化革命
1969年1月1日深夜、中国本土中央部の河南省・開封市南東部の火葬場に軍用ジープが乗りつけた。乱暴に降ろされたのは、靴下を履いていない裸足の遺体だった。軍人たちは書類に「劉衛黄」と書き、すぐ荼毘に付した。
当時、毛沢東の名から「東社会主義」となり、子どもに「衛東」のような名前をつけることが流行った。革命は赤だから「衛紅」も多かった。しかし、わざわざ「劉衛黄」と黄色をもちだすのは明らかに侮辱である。
中国語で「黄色」はポルノの意味だ。日本でピンクがポルノを意味するのと同じだ。つまり「衛黄」は「ポルノを衛る」という字を当てて貶めたのである。
遺体の主は70歳の国家主席・劉少奇だった。1月1日朝6時4分、開封市北土街1号で死去した。虐待・病気・治療拒否の末の死だった。
北京で訃報に接した毛は言った。
「自ら罪を犯した人間は生きる必要がない」
林彪副主席は言った。
「骨が朽ちるまで罵られるべきやつだ。燃やしてしまえ」
周恩来総理も言った。
「火で焼け」
劉は秋の1月1日に北京から追放され、担架に乗せられて軍用機で移送された。2日後に、古都開封市内の「追放先で死んだ」ことにされた。
劉少奇の関係者2万2000人が逮捕・粛清
時期を前後して、劉少奇の6番目の夫人・王光美は1967年9月1日に逮捕され、北京市郊外の秦城監獄で1年の獄中生活を送ることになった。
前の妻との子である長男・劉允斌は、1967年に内モンゴル自治区西部の軍事工業都市・包頭市近郊で、列車に轢かれて自殺した。長女・劉愛琴は内モンゴル自治区政府計画委員会によって「牛小屋」という監禁部屋に監禁された。次男・劉允若も逮捕され、8年後に死去した。
王光美の4人の子は未成年だったため、中南海の家から追い出された。18歳の娘「平平」、1歳の息子・源源も逮捕された。源源はのちに河南省副省長となるが、習近平と競合視され早期引退した。さらに、劉少奇の関係者2万2000人が逮捕・粛清された。


