“二股外交”の前提が崩れていた

しかも信長は、幕府そのものをも骨抜きにし始めた。

上洛からわずか1年余り後の元亀元年(1570年)1月、つまり金ヶ崎のわずか3カ月前に信長は将軍・足利義昭に「五箇条の条書」を突きつけている。その内容がすさまじい。「諸大名に命令を出す際は、必ず信長の書状も添えろ」「これまでの将軍の命令はすべて無効とし、作り直せ」「天下のことは信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思をうかがう必要はない」要するに、将軍の権限を大きく削り、信長が実権を握るという意思表示である。

将軍すら手駒にされているのを目の当たりにして、「これは新時代が来るな」と感じる者はそうそういない。大抵は「え? これ、将来は俺も用済みで切り捨てられるんじゃないのか?」と恐れおののくだろう。

朝倉とも信長とも顔をつないでおくという二股外交が成立する前提は、完全に崩れていた。浅井の側から見れば、信長という人物はこういう存在だった。

突然現れた急成長企業が、気がつけば業界の覇者になっていた。最初は「一緒に仕事しましょう」と対等な顔をしていたのに、規模が大きくなるにつれて態度が変わり、気がつけば「うちのグループ会社ですよね?」という扱いになっている。しかも既存の業界秩序――室町幕府という長年の商慣行を「非効率」と言わんばかりに次々と書き換え、逆らう取引先は容赦なく潰していく。

「このまま黙っていたら、いずれ完全子会社化されて、ブランドも消されて終わりだ」

長政がそう判断したとしても、まったく不思議ではない。

「合理的な判断」だったが、運は味方せず

さて、長政に残された選択肢は2つだけだった。

【選択肢1:信長に従って緩やかに死ぬ】

緩やかな死。朝倉を見捨て、信長の軍門に降る。波風は立てない。しかし結末は見えている。越前・若狭を平定した信長の領土に四方を囲まれた北近江は、いずれ自然に飲み込まれる。抵抗する口実もなく、戦う理由も作れないまま、じわじわと織田家の一部門として吸収されていく。かつての久政が六角氏のもとで経験したのと同じ運命、名前だけ残って実質は消える。ゆっくりと、しかし確実に死ぬ道である。

【選択肢2:朝倉について一発逆転に賭ける】

リスクは高い。しかし1570年時点の情勢を冷静に見れば、これは無謀な賭けではなかった。武田信玄は着々と西進の構えを見せ、本願寺は信長の矢銭要求に怒り、延暦寺は比叡山焼き討ちの噂に戦々恐々とし、将軍・足利義昭は信長に実権を奪われて内心穏やかではない。どれか一つでも本気で動けば、信長は詰む……長政にはそう見えた。賭けに勝てば独立を保てる。死ぬかもしれないが、勝てば生き残れる。

こうしてみると、長政の「裏切り」は極めて合理的な経営判断だったことがわかる。しかし、決断は正しかったのに、運がまったく味方しなかった。

金ヶ崎では、なぜか信長は10人の供廻りだけで脱出に成功。その後3年後には包囲網の要・武田信玄は出陣直後に急死。これまで共に戦っていた近江の国人連中も、次々と調略されて寝返っていく。結果的に武田・本願寺・延暦寺・足利義昭……鉄壁に見えた包囲網の歯車が、ひとつ、またひとつと外れていった。「そんなバカな」みたいなことが次々と起きてしまったのだ。

浅井長政公自刃之地
浅井長政公自刃之地(写真=Heartoftheworld/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons