「裏切りの理由」は明確にわからない

稲葉伊予父子3人、斎藤内蔵之佐、江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙あがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口支え、追ひ崩し、数多切り捨て、手前の働き比類なし。
(栗東町史編さん委員会 編『栗東の歴史 第2巻 (近世編)』栗東町、1990年)

信長が越前で敗走した、というニュースが近江に届いた瞬間、どこからともなく一揆が湧いて出て、村に火を放ち、守山の町に攻め込んでいる。信長の武将・稲葉伊予がなんとかこれを蹴散らしたようだが、それにしても仕事が速い。

信長の敗報が届いてから一揆発生まで、いったい何日かかったのか。ほぼ即日である。

まだまだ天下取りの途上とはいえ、比類無き勢力になっていた信長に対して、そのへんの無名の土豪や国人たちが「よっしゃ! 信長の首をとって、明日には祭りじゃああ!」と盛り上がって火をつけて攻め込んでくるのだ。こりゃあ、信長も本気で逃げないとヤバかったのがわかる。まあ、ここで「是非もなし」と颯爽と退却する演出をできるのが、天下人たるゆえんではある。

織田信長像(部分、狩野宗秀画)
織田信長像(部分、狩野宗秀画)(写真=長興寺蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

さて、こんな長政の裏切りだが、その理由を明確に示した資料はないために様々な説が挙げられ、創作されてきた。朝倉には攻めないという約束があったのに信長が裏切ったというもの、家来扱いに我慢できなくなったもの、さらにはそもそも同盟関係が存在しなかったというものまで。

“本能寺の変の黒幕は誰か”ほどではないが、史実・創作で描かれる説は、山ほど多い。筆者の個人的な意見では宮下英樹のマンガ『センゴク』の「戦国大名として覚醒したから」が、最高である。

長政は“構造的に詰んでいた”

近年、福井県の郷土史家・香水敏夫がまとめた『小谷城主浅井長政の謎 なぜ、信長に刃向かったのか』(ユニオンプレス、2020年)は諸説の整理をしている。ここでは、最もポピュラーな「越前朝倉氏への旧恩説」の出典は、小谷城落城から約百年後、江戸時代に書かれた軍記物語『浅井三代記』にすぎないとし、創作だと否定。

また、家康の外孫が編んだとされる江戸初期の史書『当代記』に「越前を取ったその引き足で当国へ乱れ入るべし」とある記述をもとに、信長の次の標的は自分たちだという危機感が浅井家中に広がっていたことを論じる。さらには、長政は足利義昭に忠節を誓っており、幕府守護のために信長を倒さねばならないと決意したとも主張しているのだ。

このように実にわずかな資料、それもほとんどは後年になって書かれたものから裏切りの理由を類推せざるを得ないのが、まぎれもない事実である。

だとすれば、問い方を変えてみよう。「なぜ裏切ったのか」ではなく「そもそも裏切りだったのか」と。

長政の立場から1570年の状況を丁寧に整理すると、まったく違う景色が見えてくる。長政は義侠心から信長に反旗を翻したのでも、朝倉への義理を守ったのでも、ましてや単純な裏切り者でもなかった。そうせざるを得ない構造的な「詰み」の中にいたのだ。

そう、浅井氏は、そもそも「詰んでいた」……そう考えると、その行動原理が見えてくるのだ。