朝倉との関係は「従属」だった

浅井家の歴史を3代遡るとよくわかる。祖父・亮政の時代、浅井氏は北近江の守護・京極氏の家臣にすぎなかった。それが下剋上で京極氏を追い落として北近江の実力者となったものの、今度は南近江の守護・六角氏に敗れて臣従を余儀なくされた。

父・久政の代には、六角氏の当主から一字もらって「賢政」と名乗らされ、六角氏重臣の娘を正室として押しつけられた。嫁まで指定される、これはもはや半属国扱いである。

この状況に家臣たちが業を煮やしてクーデターを起こし、長政が家督を継いだ。長政はさっそく六角氏から押しつけられた妻を返し、1560年の野良田の戦いで六角軍を撃破。北近江の独立を勝ち取った。

浅井長政像(部分)
浅井長政像(部分)(写真=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

しかしここで重大な問題が生じた。六角氏という後ろ盾を失った浅井氏は、代わりの「親方様」を必要としていた。その役割を担ったのが越前の朝倉氏である。

注目すべきは、この浅井・朝倉の関係が「同盟」ではなく「従属」だったという点だ。浅井氏側が朝倉氏を「御屋形様」と位置づける文書が出てきたことや、一乗谷に「浅井殿」・「浅井前」の地名が残されていることから、対等な同盟関係ではなく、朝倉氏に出仕していたことをうかがわせる。一乗谷には浅井家の屋敷まであった。対等な盟友ではなく、格上の主君に仕える関係だったのだ。

長政は「協同組合の代表者」のような立ち位置

つまり長政が信長と同盟を結んだ時点での構図はこうだ。

そもそも浅井氏の実態は北近江の国人・土豪たちの連合体であり、浅井当主はその盟主にすぎない。しかも、家臣が主君にクーデターを起こして当主を交代させる、これが普通に起きる組織である。株式会社だと思ったら一人一票の協同組合だった、というやつだ。

この構造が、長政の外交を根本から規定していた。

あくまで「みんなに選ばれた」協同組合の代表者に過ぎないから、組合員の顔色をうかがいながら経営しなければならない。長政ひとりが「信長につく」と決断しても、家臣団が「朝倉様への義理はどうするんだ」と突き上げれば、それを無視することはできない。

じゃあ、なんで同盟関係になったかといえば、答えは単純である。「どっちにもいい顔をしておく」のが最良と思われたからだ。なにせ、信長というヤツは、尾張の新興勢力かと思いきや、気がつけば美濃を手に入れてしまった。朝倉の親分もそう手厚く相手をしてくれるわけでもないから、こっちにも唾を付けておこうというわけである。想定外なのは、結果、長政が美人な嫁を手に入れたことくらいだろう。