戦争のコストは「戦場の外」でこそ拡大する
第六の失敗は、戦争がいつも小さく始まることだ。
ベトナムは顧問派遣から始まり、爆撃機による空爆へ、そして地上軍へと滑った。レバノンでは安定化任務が当事者化し、ソマリアでは人道支援が武装勢力の掃討に変わった。アフガニスタンでは9.11のテロに対する懲罰作戦が、20年にわたる国家建設に化けた。対ISIS作戦も「小さく、賢く」始まったはずが、中東への半恒常的関与を残した。
イランでも、当初の説明は「限定」「短期」「抑制的」というものだった。だが、ホルムズ海峡、報復の連鎖、同盟国の要求、国内政治の面子が絡み始めた瞬間、その言葉はもっとも信用できなくなる。ワシントンで最も危険な形容詞は、おそらく「限定的」だ。戦争はしばしば、始めるときの説明より、やめるときの条件のほうで正体を現す。
第七の失敗は、戦争のコストを狭く見積もることだ。
開始6日で113億ドルという数字は派手だが、もっと重い請求書は別にある。ホルムズ海峡をめぐる緊張は、日本にとって燃料費と物流費の上昇を意味する。中東で弾薬、艦艇、外交注意力を消耗すれば、中国やロシアへの抑止の帳尻も崩れる。戦争の最大コストは、しばしば戦場の外で発生する。
ベトナムは国内政治を裂き、イラクは結果としてイランの相対的地位を押し上げ、アフガニスタンと長い中東介入の余熱は「中国への集中」を何度も遅らせた。その意味で、1991年の湾岸戦争のような「成功例」でさえ、完全な安心材料ではない。
軍事的な成功が「次も短く片づく」という錯覚をワシントンに与えたのだとすれば、その副作用は小さくなかった。短く鮮やかな勝利であっても、その後の判断を誤らせたなら、長い目では負債を残しうる。
「国益が増えたか」で勝ち負けを判断すべき
結局、アメリカが繰り返してきたのは、戦場での勝利を政治の成功と取り違える失敗である。戦闘で勝っても、政治で負ける。しかも、成功したように見えた戦争が次の錯覚を育てるなら、その成功すら総決算ではマイナスに転じうる。長期の国益という物差しで見れば、問うべきは「始められるか」ではなく「終えられるか」だ。
これは感情的な反戦論ではない。大国の会計学である。イランに甘いから反対しているのではない。悪い敵を殴ることと、よりましな秩序を残すことは別だと知っているからだ。国家の成熟は、戦争を始める力ではなく、始めない知性と、終える条件を先に考える冷静さに表れる。
日本から見るなら、評価軸も同じである。アメリカの威信を守ったかではなく、ホルムズ海峡依存のエネルギー価格、物流、そして中国への抑止にどんな穴を開けたかで測るべきだ。味方の戦争をそのまま自国の利益と取り違えないこと。それもまた、国益と抑止から戦争を見るときの、地味だが実用的な教訓である。
今回も問うべきは一つだ。これは始められる戦争か、ではない。終えられる戦争か、である。


