節子夫人のいる家庭が安らぎだった
筆者がかつて評論した、有名なヘルンのエッセイ『ある女の日記』も、校本に拠るところがあるとは言いながら、実はその愛妻節子夫人を、半面のモデルにしたものと言われている。幼にして母を失い、他人の家に養われ、貧困の中に育ち、飢餓と冷遇を忍びながら、職を求めて漂泊し、人の世の惨たる辛苦を嘗めつくして、しかも常に魂の充たされない孤独に寂しんでいたヘルンにとって、日本はついにそのハイマート(編集部註:ドイツ語で故郷)でなかったにしろ、すくなくともその妻に抱擁された家庭だけは、彼の最後に祝福された、唯一の楽しい安住の故郷であった。おそらくヘルンはその時初めて心の隅に、幸福という物の侘しい実体を見たのであろう。
小泉八雲が妻子を最優先したワケ
すべて貧困の家に育ち、肉親の愛にめぐまれずして家庭的、環境的の不遇に成長した人々は、そのかつて充たされなかった心の飢餓を、他の何物にも増して熱情するため、後に彼が一家の主人となった場合、その妻子の忠実な保護者となり、家庭を楽園化することに熱心である。
ラフカジオ・ヘルンの場合も、またその同じ例にもれなかった。彼が日本に帰化したことも、普通の常識が思惟するように、日本を真に愛したからではなかった。その頃の彼は、日本をもはや『夢の国』としては見ていなかった。そして『西洋の国々と同じく、ここにもやはり醜い生存競争があり、常々不義や奸計が行われている』と、地上の現実社会である日本を見ている。
詩人がその空想の中で画くような、ファンタスチックな夢の国は、現実の地球上にあるはずがない。しかも宿命的な詩人の悲願は、その有り得べからざる夢の国を、生涯夢見続けることの熱情にある。初めからボヘミアンであったヘルンは、晩年においてもなおボヘミアンであり、永遠に故郷を持たない浦島だった。もし彼に妻子がなかったら、日本に幻滅した最初の日に、再度また『まだ知らぬ新しい国』を探すために、あてのない漂泊の旅に出発したにちがいなかった。

