「ばけばけ」(NHK)のモデル小泉八雲は東京帝国大学で教鞭を取り、のちの文学者にも大きい影響を与えた。『月に吠える』で有名な詩人の萩原朔太郎は昭和16年9、10月に「小泉八雲の家庭生活 室生犀星と佐藤春夫の二詩友を偲びつつ」という随筆を遺している。その一部を紹介する――。

※本稿は『ちくま日本文学036 萩原朔太郎』(筑摩書房)の一部を再編集したものです。一部に現在では差別的な言葉とされている表現がありますが、昭和16年発表の原文のまま掲載しています。

詩人の萩原朔太郎、1915年
詩人の萩原朔太郎、1915年(写真=『決定版 昭和史 第4巻』毎日新聞社、1984年より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

萩原朔太郎から見た「小泉八雲」

万葉集にある浦島の長歌を愛誦あいしょうし、日夜低吟ていぎんしながら逍遥しょうようしていたという小泉八雲は、まさしく彼自身が浦島の子であった。希臘(ギリシャ)イオニア列島の一つである地中海の一孤島に生れ、愛蘭土(アイルランド)で育ち、仏蘭西(フランス)に遊び米国に渡て職を求め、西印度(インド)に巡遊じゅんゆうし、ついに極東の日本に漂泊して、その数奇な一生を終ったヘルンは、魂のイデーする(編集部註:理想である)桃源郷の夢を求めて、世界をあてなくさまよい歩いたボヘミアンであり、正に浦島の子と同じく、悲しき『永遠の漂泊者』であった。

しかしこの悲しい宿命者も、さすがに日本に渡ってからは、多少の平和と幸福を経験した。日本は後年の彼にとって、最初の幻惑した印象のごとく、理想の桃源郷やフェアリイランドではなかった――後年彼は友人に手紙を送り、ここもまた我が住むべき里にあらずと言って嘆息した――けれども、貞淑で美しい妻をめとり、三人の愛児を生み、平和で楽しい家庭生活をするようになってから、寂しいながらも満足な晩年を経験した。

ハーンは平均身長の低い日本になじんだ

ヘルン自ら、絶えずそれを羞恥しゅうちしたごとく、彼のように短身矮躯たんしんわいくで、かつ不具に近い近眼の隻眼者せきがんしゃで、その上に気むずかし屋の社交下手であったことから、至るところ西洋の女性に嫌われ通していた男が、日本に来て初めて人並の身長者となり、人並以上の美人を妻としかつその妻に終世深く愛されたことは、いかにしても得がたき望外の幸福であったろう。

彼の妻(小泉節子夫人)が、その旧日本的な美徳によって、いかに貞淑に良人おっとに仕え、いかによく彼を愛し理解していたかということは、後年彼が多少日本に幻滅して、在外の友人に日本の悪評を書いた時さえ、日本の女性に対してだけは、一貫して絶讃ぜっさんの言葉を惜まなかったことによっても、またその多くの『怪談』に出て来る日本の女性が、ちょうど彼の妻を聯想れんそうさせるごとき貞婦であり、旧日本的なる婦道の美徳や、そうした女に特有のしとやかさいじらしさ、愛らしさを完備した女性であることによっても知られるのである。