食糧の運搬ルートが勝敗を分けた

また、1590年の小田原攻めは北条氏を滅ぼす大規模な戦いでしたが、秀吉は全国の大名を動員し、20万に及ぶ兵を集めました。これほどの兵を動かすにはやはり莫大な食糧が必要です。秀吉は各地に「蔵入地」と呼ばれる直轄領を整備し、そこから年貢を集めて兵糧を確保していました。さらには東海道・中山道なかせんどうなど主要な街道を兵站路として整備し、物資が途切れないようにしています。街道沿いには宿場町が置かれ、輸送の中継点となっています。兵站路の管理は、戦争の勝敗を分ける重要な要素だったのです。

小田原城
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小田原城
出口治明『日本史の極意』(SB新書)
出口治明『日本史の極意』(SB新書)

それから秀吉といえば、明(中国)を攻めるために海を渡って朝鮮に出兵したことでも有名です。「誇大妄想に取り憑つかれた」とか「老いて耄碌もうろくした」とかさまざまに言われていますが、秀吉にはそれなりに勝算があって朝鮮半島に出兵したのではないかと僕は思っています。

十数万の兵を朝鮮半島に送り込むためには、海を越えて大量の食糧や武器を運ぶ必要があります。秀吉は瀬戸内海の海運ネットワークを利用し、西日本の港を兵站基地にしています。また、秀吉が九州に築かせた名護屋城は兵站基地としては超巨大な規模でした。朝鮮半島から上陸し、北京に入るくらいまでの兵站は計算していたのではないでしょうか。

もちろん海を渡って遠征するのは、陸続きで移動するよりはるかに大変で見積もりを誤った部分があったでしょうし、そもそも明に関する情報も不十分だったと思います。

秀吉も朝鮮出兵の兵站で失敗した

それよりも問題は、秀吉さえも対外戦争となると開戦前に落としどころを定め、先々の見通しをシミュレートしていたふしがあまり見当たらないことです。「勝ったらこう」「負けたらこう」というような次の手の準備がなければ、戦争は続けられません。朝鮮半島での戦争が長期化して補給が追いつかなくなると、現地での調達・略奪に依存せざるをえず、これがのちのちまで続く、朝鮮半島の人々からの反発、怨恨につながっています。

第二次世界大戦中の日本軍が兵站を軽視したために、南方戦線では戦死者よりも餓死者のほうが多かったことについてはしばしば語られています。しかし、日本人がずっとロジスティクスを軽んじていたわけではありません。

ただ、今でも日本ではしばしば、どうやってモノや人をデリバリーするのかを無視して「気合と根性でなんとかする」という精神論が横行しています。人手不足で物流や人材の確保・提供への視点なくしては社会が回らなくなりつつある今こそ、兵站の重要性を認識し直す必要があるのではないでしょうか。

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