食糧や武器をどう確保し運ぶか
実際に戦争を動かす大きな力のひとつは「ロジスティクス」、兵站です。兵站とは、兵士に必要な食糧や武器、物資をどう確保し、どう運ぶかというしくみのことです。これがなければ、どんなに優れた戦術を立てても戦争は続けられません。
信長は、戦争と商業・流通を連動して考えました。当時の日本では、領主ごとに関所を設けて通行税を取るのが普通でした。これは自国の収入源にはなりますが、物資の流れを滞らせるデメリットもあります。信長は美濃(現在の岐阜県)を本拠とした時期から一部の関所をなくし、いわゆる楽市楽座を進めました。商人たちに自由な商売を保証します。すると市場が活性化する。結果、兵糧や武器の調達もスムーズになります。
信長が楽市楽座を広めたワケ
また、城下町を兵站拠点として整備してもいます。岐阜城下をはじめ、安土城下などでも市場の発展を促す施策を打っています。都市づくりであると同時に、兵力を維持する物資を安定確保する「物流拠点」づくりでもあったと言えるかもしれません。
1575年、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍が激突した「長篠の戦い」は、信長軍の鉄砲大量使用で有名ですよね。この背後にも兵站の準備があります。約100から3000挺とも言われる鉄砲を運用して撃ち続けるためには、火薬や鉛玉の供給が欠かせません。信長は南蛮貿易を通じて硝石を確保し、国内の鉱山や鍛冶集団を動員して弾薬を供給していたから、これができたわけです。
信長の死後、秀吉は信長のやり方を引き継ぎつつ、さらに兵站を大規模化しています。
本能寺の変で織田信長が討たれた1582年6月2日、秀吉は備中高松(現在の岡山市)から約3万の大軍を率いて山城国の山崎(現在の京都府乙訓郡)まで、約200キロを8日から10日程度で移動しています。いわゆる「中国大返し」です。このとき備中高松城から当時の秀吉の根拠地だった姫路城までの約92キロを2日ほどで踏破したわけです。1日40キロから50キロも行軍したと見られています。さすがに全軍が1日50キロ行軍するのは非現実的ですから精鋭部隊が先行するかたちだと思いますが、それにしても速い。
また、人間が3万人も動くとなればとんでもない量の食事が必要になります。ということは、その大軍勢が行く前に先回りして休む場所を確保したり、食事を手配したりするような部隊がいたはずです。猛スピードでの移動には、こうしたロジスティクス担当者の存在、前もっての場所や食糧の確保が不可欠です。

