秀吉のおかげで14歳の少年が大出世

さらに同年10月、秀吉が朝廷に執奏しっそうすることにより、秀吉一門や有力な諸大名が一斉に公家成くげなりをした(『兼見卿記』)。公家成とは五位以上になって、昇殿を許される身分に昇進することである。このとき、秀吉の弟・秀長をはじめ、細川忠興ら10名が昇殿を許可された。

その際、宇喜多秀家も昇殿を許されたが、当時まだ14歳の少年であり、周囲も驚くような破格の扱いであった。

そもそも宇喜多氏は、備前の一介の土豪に過ぎなかった。宇喜多氏に限らず、身分の低い武将が信じがたい昇進を果たした例は枚挙にいとまがない。秀吉は自らが関白などの重職に就任することで、配下の大名の官位執奏権を手にしたのだ。

信長の時代は信賞必罰により、功のある者には相応の恩賞が与えられた。むろん、秀吉の場合も同じであるが、異なるのは諸大名を官位により序列化し、視覚化を行ったことだった。それは、関白・太政大臣の秀吉を筆頭にして、豊臣政権内部における諸大名の序列を鮮明にして統制するものだった。

天下人なのに征夷大将軍にならなかった理由

秀吉は、ついに武家の棟梁である征夷大将軍に就任しなかった。その理由として考えられるのは、秀吉の身分が低かったため、武家の頂点に立つよりも公家社会に憧れの念を抱いていたことがあったのではないか。

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)

また、征夷大将軍は武家社会のトップではあるが、諸大名を序列化するシステムとしては不十分である。公家社会は先述のとおり、摂関家などの家格に加え、官位によって序列化されていた。秀吉は抽象的な意味での武家社会のトップである征夷大将軍よりも、関白・太政大臣という公家社会の頂点に位置し、公家のシステムを換骨奪胎して創出した、独自の武家官位制に魅力を感じたと考えられる。

関白秀吉の体制の大きな画期になったのは、天正16年の聚楽第行幸である。秀吉の牛車の前駆けは、74人とも120人とも伝えられている(『当代記』など)。その壮麗さには、諸大名をはじめ都の人々も驚嘆したはずで、秀吉の威勢は全国に知れ渡った。

また、大勢の供奉ぐぶを引き連れたのは、秀吉だけではない。従二位大納言の徳川家康は12人、正二位内大臣の織田信雄は10人、従二位大納言の豊臣秀長は16人、従三位の豊臣秀次は12名もの諸大夫を引き連れていた。その威勢には、本家の公家もきっと驚いたに違いない。

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