秀吉と家康から一字ずつもらった秀康
ちなみに、秀吉が名前の一字「秀」を与えたことは、あまり例がない。秀次、秀勝、秀家、秀秋など、養子に迎えた者にほぼ限定されている。「秀」字は羽柴(豊臣)家の通字だった。足利将軍家も通字の「義」を授ける例は、乏しいといえる。
徳川家康の次男・結城秀康は、家康と秀吉の友好の証として養子縁組がなされ、秀吉に迎えられた。秀康の名前の「秀」字は秀吉から、「康」字は家康から取ったものである。
秀吉が「秀」字をもしくは「吉」字を与える基準は、養子に迎えた者かそれ以外の者か、であった。秀吉は身内と外様とで、厳然たる区別を設けたと考えられる。
高い官位を求めた地方の大名たち
「羽柴」氏と「豊臣」姓を巧みに活用した秀吉であったが、次に目を付けたのは官位だった。秀吉は官位をいかにして活用し、大名を統制したのであろうか。
その前に、戦国期における武家の官位の概要を説明しておこう。
16世紀前半頃から、戦国大名が朝廷に官位を申請すると、希望する官位が金銭などと引き換えに朝廷から与えられた(もちろん例外もある)。厳密にいえば、室町幕府を通して、朝廷への官位申請の仲介が行われた。
地方の大名は高い官位を競って希望したが、実力的支配が展開する戦国社会においては、必ずしも高い官位を得ることにより領国の実効支配が裏付けられたわけではない。
たとえば、安芸国を円滑に支配するのに、「安芸守」という受領官途が有効であったか否かを一次史料で証明することは至難の業である。実際に「安芸守」という受領官途が支配を円滑に進めたことを示す史料は皆無に近い。むしろ、各大名が与えられた官位を「有効である」と信じて、朝廷に希望したと考えるのが理にかなっている。
かつて、受領官途が当該国を支配するのに有効であるという説があったが、今では実証性に欠けるため否定的な見解が多数を占めている。

