官位に興味を示さなかった信長は少数派

秀吉が仕えた信長は、自身が積極的に官位を活用した形跡が乏しく、配下の武将に任官を勧めた例もほとんどない。しかし、秀吉に限らず、戦国大名は自身が官位を得るとともに、独自に配下の武将に対しても官位を与えた事例が残っている(毛利氏など)。官位の授与による家臣団のコントロールは、秀吉の専売特許ではなかった。

通常、官位は朝廷の作成する口宣案により授与されたが、戦国大名の配下の武将の場合は、ごく一部の例外を除いて口宣案が発給されていない。戦国大名は独自に(勝手に)官途状を作成し、配下の武将に与えたのである。

同時に、大名の官位も僭称せんしょう(自称)が大半であり、すべての官位の授与が朝廷から認められたわけではない。先祖が自称した官位は、代々「家」の官位として継承されたのである。

ここまで説明したとおり、大名が官位を与えられることによって、目に見えるメリットがあったとは考えにくい。しかし、官位を授与された者にとっては非常に栄誉のあるものであり、そうした理由で要望された側面は否定できない。

秀吉が目を付けたのは、官位の持つ栄誉という性質、そして大名の序列化だった。秀吉は信長と異なり、官位をうまく利用して配下の大名を統制しようと考えたのである。

織田信長像
織田信長像(画像=狩野元秀/東京大学史料編纂所/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

秀吉が関白、直臣12人は諸大夫に

秀吉が関白に就任したのは、天正13年7月のことである。その際、直臣12名が一斉に従五位下・諸大夫しょだいぶに叙された(『秀吉事記』など)。その面々とは、石田三成、大谷吉継などの腹心の家臣であった。

ちなみに諸大夫とは、朝廷から親王・摂政・関白・大臣などの家司けいし(公卿の家に置かれた職員)に補せられた者で、四位、五位まで昇進した地下人じげにんのことを示す。地下人とは昇殿を許されない官人の総称で、一般には蔵人くとうどを除く六位以下の人を意味する。

秀吉が関白に就任すると、当然ながら家司となる扈従こじゅう(従者)が必要であった。そこで、秀吉はもっとも信頼できる直臣の中から12名を選び出し、従五位下・諸大夫に任命したのである。彼らの補任の事実に関しては、口宣案の発給が確認できる者も存在するので、ほぼ間違いないと考えられる。