名前の一字を与えるのは慣例だった

一般的に、戦国大名は配下の武将との関係を強化するために、自らの名前の一字を与えていた。偏諱授与である。

たとえば、15世紀後半に播磨国など3カ国守護を務めた赤松政則の配下の武将たちは、別所則治、浦上則宗、小寺則職などのように、政則から「則」の一字を与えられていた。ちなみに、別所氏の「治」、浦上氏の「宗」、小寺氏の「職」は、それぞれの家の当主の通字とおりじ(実名に祖先代々伝えてつける文字)である。

したがって、一般的に大名配下の武将は、当主から与えられた一字+自身の家の通字によって、名前を決めていたのである。

また、さらに時代が進むと、将軍家は名前の一字を大名に与えた。足利義晴は「晴」の字を、足利義輝は「輝」の字を各地の大名に与えたことが確認できる。尼子晴久や赤松晴政は、その一例である。ただし、この場合は偏諱と官位を与えるのがセットになることが多く、将軍家は諸大名の金銭の見返りを期待していた。

前田利家や宇喜多秀家にも授与

名字を家臣に与えた例も多い。小寺氏は家臣の黒田氏に「小寺」の名字を与え、名乗らせた。明智光秀の場合も同じである。彼らは自身の名字を配下の者に与えることにより、主従間の紐帯ちゅうたいを強めた。

宇喜多氏のケースは有力な家臣に対し、「宇喜多」ではなく「浮田」という当て字で名字を与えていた。こうして宇喜多氏は擬制的な一族を形成し、円滑に領国支配を行おうとしたのである。

こうした例にならって、秀吉は名前の一字でなく「羽柴」氏や「豊臣」姓を与えていたのである。

一つの例を確認しておこう。天正16年4月14日、大友義統(宗麟の子)は聚楽第の秀吉のもとを訪れた(『大友家文書録』)。このとき、大友氏は秀吉から、「羽柴」氏と「豊臣」姓を与えられている。同年4月末日になると、義統は「吉」の字を秀吉から与えられ、吉統へと改名した。

むろん、大友氏だけが「羽柴」や「豊臣」を与えられたのではなく、五大老クラスである前田利家や宇喜多秀家を含め、数多くの大名に例が見られる。ただし、「豊臣」姓を与えられた者のほうが少ないので、「羽柴」氏より価値が高かったと考えられる。